2025.05.29

推しの逸品:コレクション・スポットライト Vol. 5 富山県美術館 ジャスパー・ジョーンズ《消失II》

お話を伺った人:内藤和音(ないとうまさね)学芸員

ジャスパー・ジョーンズ《消失II》1961年
© Jasper Johns / VAGA at ARS, NY / JASPER, Tokyo 2025 E6026

全国の美術館のスタッフが、自館のコレクションの中から「推しの逸品」、つまり皆さんに鑑賞してほしい一作品にスポットライトを当ててご紹介いただく連載企画。第5回で訪れたのは、2017年に開館した富山県美術館。20世紀の美術を概観するコレクションを形成した、富山県立近代美術館を前身とする美術館です。その富山県立近代美術館時代から収蔵されている、アメリカで1961年に制作された作品を「推しの逸品」として内藤学芸員にご紹介いただきました。

富山県美術館2階のホワイエに立つ内藤和音学芸員

20世紀の美術を網羅するコレクション

富山県立近代美術館が竣工以来35余年を経て、建物が老朽化したことをきっかけに、富山駅北側の富岩運河の船溜りを整備して市民に広く利用されている富岩運河環水公園に新築移転し、2017年に開館した富山県美術館。今回「推しの逸品」として選んでいただいた、20世紀アメリカのポップアートを代表するアーティストのひとりであるジャスパー・ジョーンズ(1930–)による《消失II》は、富山県立近代美術館開館の前年である1980年に購入された作品です。富山県立近代美術館がこの作品を収蔵した経緯について、内藤学芸員に伺いました。

「富山県立近代美術館は、開館時に、20世紀の美術を概観するコレクションの形成を目指すことが決まりました。富山出身の美術評論家である瀧口修造さんに、開館に向け、館が目指すべき方向性などに関してご助言を仰いでおり、美術館運営や企画展の相談役としてご紹介いただいたのが、瀧口さんを精神的父親として慕っていた美術評論家の東野芳明(とうのよしあき)さんや詩人で評論家の大岡信さんでした。開館当時の収蔵作品を図版と文章で紹介するカタログに東野さんが寄稿されているのですが、同館コレクションには戦前に日本で洋画を描いた作家なども含まれていることが特色となる、といった趣旨のことを書かれており、20世紀の美術がどのような系譜を辿ったのかを表すために、時代やジャンルに偏ることなく作品を収集して研究と展示を行うことを意識されていたことがわかります」

開館以前から先鋭的な姿勢で収集されたコレクションには、まだ評価が定まっていない同時代の作家の作品も多く含まれていました。現在では美術史における重要性が認められた作品も名を連ねる前身のコレクションには、近年改めて注目が高まっています。東野芳明がアーティストに指針を示す現代美術の「原器」と高く評価していたジャスパー・ジョーンズの《消失II》が、館の収集方針を示し、開館後の展示や研究のために活用できる作品として重要だと考えたことが想像できます。

2025年1月25日から4月6日まで、コレクションを軸に富山県美術館で開催された企画展「没後20年 東野芳明と戦後美術」の展示風景。画像の中央より少し右に見える作品が今回の「推しの逸品」。

絵画をどのように定義づけるか

1940年代後半から50年代にかけ、世界的に評価を得て美術界の主流となったのが抽象表現主義でした。そこから次の時代を見据え、新たな表現を求める作家たちを集めたアメリカにおけるポップアートの重要な出発点と言われる、「International Exhibition of the New Realists」と題する展覧会が1962年にニューヨークのシドニー・ジャニス・ギャラリーで開催されました。その前年に制作された《消失II》について、内藤学芸員は次のように話します。

「一般的にジャスパー・ジョーンズは、ポップアートの作家として知られていますが、《消失II》はその胎動期ともいえる時期の作品です。当時は抽象表現主義が主流であり、そこへの反動として新たな表現を多くの作家が模索しました。これまでにない表現技法で、時に絵画そのものを解体し、絵をどのように構成するか、どのような素材を組み合わせて絵画を作るか、ということをジャスパー・ジョーンズは追求してこの作品を生み出したのだと思われます」

「作品に近づくと、背景の白が残っていたり、やや赤っぽい色が使われていたり、黒一色ではないことがわかります」と、画面のディテールを説明する内藤学芸員。

一般的に絵画作品といえば、1枚のキャンバスや紙、板などの画面の上に色彩を載せ、何らかの図像を描くものを想像するでしょう。しかし《消失II》でジャスパー・ジョーンズは、地のキャンバスの上にもう1枚のキャンバスを折り畳んで貼り付け、そこに絵具を塗り、作品を完成させました。

ジャスパー・ジョーンズ《消失II》1961年 富山県美術館
© Jasper Johns / VAGA at ARS, NY / JASPER, Tokyo 2025 E6026

「キャンバスの上に展開する物語が油絵具だけで構成されるのではなく、従来は地であるはずのキャンバスも画面に加え、絵の構成要素としてしまったところに《消失II》の独創性があります。東野さんは舞台装置を例えに出し、ステージだったはずのキャンバスが、ステージだけではなく役者にもなってしまうような構造の転換を引き起こし、新しい組み合わせによる絵画のあり方がこの作品で提示されたのだと批評しています」

企画展「没後20年 東野芳明と戦後美術」(2025年1月25日〜4月6日開催)の展示風景。《消失II》の隣には、東野がジャスパー・ジョーンズと一緒に写るスナップ写真が展示されている。

学生時代には砂澤ビッキを研究

美術大学の大学院を修了して富山県美術館に入職した内藤学芸員は、学生時代に砂澤ビッキ(1931–1989)というアイヌにルーツを持つ彫刻家の研究をしました。

「札幌市内の屋外に設置され、30年ほどが過ぎて一部が朽ちて倒れ、風化して土に還りつつある砂澤の作品があります。もうすでに作家は亡くなっていますが、生前にはそのように風化する経過も含めて自然の造形活動の一部だと、詩のような形で言葉を残しています。では、その言葉をどう解釈すべきなのか。あるいは、美術館と作家の関係や、作品そのものをどのように捉えるべきなのか。そうしたことを含めて美術について考えたいと思い、砂澤ビッキの研究をしました」

言葉も含め、どのように作家の表現を解釈すべきか。美術館は作家とどのような関係を築くことができるのか。ひとりの作家の研究を通じて、作品のみではなくその周縁も含めて美術について考えることになったと内藤学芸員は話します。

富山県美術館2階の屋外広場に並ぶ三沢厚彦の作品「Animal 2017」シリーズの3点。2017年の開館に際し、美術館のどこにどのような作品を設置するか作家と協議を重ね、コミッションワークとして制作された。作家との関係を大切にする富山県美術館の姿勢を象徴する作品だといえる。右から 三沢厚彦《Animal 2017-02-B》、《Animal 2017-01-B》、《Animal 2017-03-B》

小さな子どもから大人まで、誰でも参加できるワークショップを開催するアトリエは3階に位置する。「作品を鑑賞するだけでなく自分で作ることで、頭で考えて形を創造することもできて、美術を立体的に理解し、より楽しんでいただけるはずです」と、展示と関連して行われるアトリエの企画にも注力していきたいと内藤学芸員は話す。

20世紀の美術におけるポップアートの位置付け

「推しの逸品」として選ばれたジャスパー・ジョーンズの《消失II》は、2025年7月17日から10月28日まで開催する、コレクション展の一企画のコンセプトとつながった作品です。展覧会のタイトルは「ビフォアアフターポップ TADのアメリカ美術+」。国立アートリサーチセンターが全国の美術館と協働し、国立美術館のコレクションを活用する公募事業「国立美術館 コレクション・プラス」に採択された企画です。富山県美術館の充実した20世紀中盤以降のアメリカの美術作品と合わせて、国立国際美術館が所蔵する、カラーフィールド・ペインティングと称する抽象絵画の代表的な作家のひとりであるバーネット・ニューマン《夜の女王I》(1951年)と、抽象絵画とカリグラフィを融合させたような詩情あふれる作品で知られるサイ・トゥオンブリー《マグダでの10日の待機》(1963年)が展示される予定です(その他、「国立美術館 コレクション・プラス」として、国立国際美術館と富山県美術館のそれぞれが所蔵するピカソの作品を組み合わせた展示「ピカソ——肖像画とモデル」も開催予定)。

「ポップアートの作家も当然、それ以前の抽象表現主義などの作品を見て絵画を勉強したり、自分の表現方法を模索していたりします。20世紀の美術史においてポップアートはどのように位置づけられるのか。ポップアートが生まれたきっかけとしては、美術の主流となっていた抽象表現主義への反動が考えられます。その前後関係を含めて見るために、当館が所蔵していないバーネット・ニューマンとサイ・トゥオンブリーの作品をお借りすることで、20世紀美術をより充実した形でご覧いただきたいと考えています」

通常は1室のみを使用してコレクション展が行われますが、コレクション・プラスの開催期間はそれを2室に拡大し、1室では通常のコレクション展、もう1室で「ビフォアアフターポップ TADのアメリカ美術+」と「ピカソ——肖像画とモデル」が開催されます。両館の充実したコレクションを通して20世紀美術の流れを知ることができる貴重な機会となります。

取材で訪れた際に開催されていた「コレクション展IV」(2025年2月6日〜4月22日開催)展示風景

【内藤学芸員による、推しポイント】

「推しの逸品」としてジャスパー・ジョーンズの《消失II》を選んだ理由について、内藤学芸員は次のように話し始めます。

「この作品を選ぶきっかけとなったのは、20世紀美術におけるポップアートの位置付けをテーマに選び、コレクション・プラスの企画を考えたことです。抽象表現主義の時代から、ポップアートの胎動期にかけてどのような作品が作られたのかが見えてくる作品だと言えます」

そして、見てほしい「推しポイント」を次のように続けます。

「作品が制作された当時、ジャスパー・ジョーンズは私生活において失意の時期だったともいわれています。この作品は黒一色に塗られていて、作品タイトルの《消失II》も原題が Disappearance(消失、消滅)であり、作家が当時、心に穴が空いて空虚な喪失感のようなものを持ち合わせていたことが類推できます。しかし作品をよく見ると、背景の白が残った部分や、紫のような色が使われていたこともわかり、失意を乗り越えるための微かな望みも持っていたのではないかと想像することもできます。従来の絵画への反動から生み出した、キャンバスを絵の構成要素とする新たな技法とあわせて、実際の作品を前にしなければ見えない色の表現も含んだ作品です。作家の新たな表現への野心と作品を描いた時期の心理状態とがどのように関係していたのか、作品の実物を見ることで想像力が強く刺激される作品だと感じ、こちらを選びました」

富山県美術館では、コレクション展が期間ごとにテーマを変えながら実施されるため、「推しの逸品」が常に公開されているわけではありません。展示時期は、富山県美術館までお問い合わせください。

内藤和音
ないとうまさね

北海道生まれ。2021年より、富山県美術館に学芸員として勤務。これまでに担当した企画展は「宮城県美術館所蔵 絵本原画の世界2022」「デザインスコープ—のぞく ふしぎ きづく ふしぎ」「大竹伸朗展」「民藝 MINGEI ―美は暮らしのなかにある」。

(取材・執筆・撮影:中島良平)

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