2025.08.01

推しの逸品:コレクション・スポットライト Vol. 6 長野県立美術館 中谷芙二子《Dynamic Earth Series I》霧の彫刻 #47610

お話を伺った人:茂原奈保子(しげはらなおこ)学芸員

中谷芙二子《Dynamic Earth Series I》霧の彫刻 #47610 2021年

全国の美術館のスタッフが、自館のコレクションの中から「推しの逸品」、つまり皆さんに鑑賞してほしい一作品にスポットライトを当ててご紹介いただく連載企画。第6回では、建物を建て替えたのみではなく、コンセプトも一新して2021年に生まれ変わった長野県立美術館(旧・長野県信濃美術館)を訪れ、茂原奈保子学芸員にお話を伺いました。

長野県立美術館の屋上広場[風テラス]に立つ茂原奈保子学芸員。背後に見える大屋根は国宝・善光寺本堂

美術館の新たなコンセプトを象徴する「霧の彫刻」

長野県出身や県にゆかりのある芸術家が作品を発表できる場が必要だという、民間の声の後押しにより、県内に一局あったテレビ局が支援し、1966年に財団法人信濃美術館が開館しました。1969年に県に移管されて長野県信濃美術館となり、50年近くが過ぎ、老朽化によって建物を建て替えるだけではなく、コンセプトも新たに長野県立美術館として生まれ変わったのが2021年のこと。

「ランドスケープ・ミュージアム」というコンセプトが掲げられ、周辺の景色と一体となり、内と外との境界がなく開かれた美術館を目指すことになりました。そして、風景とも美術館とも一体化するような作品として、中谷芙二子(なかやふじこ)の代表的なシリーズのひとつに数えられる「霧の彫刻」を収蔵することが決まりました。特殊なノズルから高い圧力をかけて水を噴出し、人工的に生成された「霧」によって形があらわれる不定形の彫刻作品です。茂原学芸員はその経緯について次のように説明します。

「前身の長野県信濃美術館時代の収蔵作品は、長野県にゆかりのある作家の作品か、信州の美しい風景をテーマにした作品という方針に拠ったものがほとんどでした。そのコレクションはもちろん、現在も大切に受け継がれ、県立美術館として長野県の作家たちの作品調査や、制作の支援を行っていくことは継続していますが、2021年の開館の際に、長野県に限らず国内外の近現代美術史上の重要な作品も収集する方針が加わりました。

これまで当館であまり扱ってこなかった現代美術においては、いろいろな手法で手がけられた作品があります。美術館を風景の一部ととらえ、背景となる山も作品に取り込む『霧の彫刻』は、これまでの収蔵方針を大切にしながら現代美術にも目を向けていくという、新旧の収蔵方針をつなぐ役割を果たす作品だと思っています」

長野県立美術館の本館と東山魁夷館を結ぶ連絡ブリッジの下に、屋上から1階へと階段に沿って水が流れる[水辺テラス]が設けられた。その水の動きと呼応するように、「霧の彫刻」の霧は高いところから低いところへと広がっていく。

「中谷さんは国内外の各地で『霧の彫刻』を手がけてきました。当館でも、目に見えない気象条件を可視化するこの作品が、『ランドスケープ・ミュージアム』のコンセプトと合致するために収蔵が決まりました」と茂原学芸員。

設置場所の地形や気象条件の丹念な調査を経て、霧の発生条件が検討され、それぞれの作品に固有の霧が生まれます。そのため、その設置環境における独自性を表す作品名が付けられ、当該の作品設置場所から最も近い場所に位置する、全世界の気象観測地点に割り振られた「国際地点番号」が振られます。こうして、長野県立美術館が収蔵する「霧の彫刻」には、《Dynamic Earth Series I》霧の彫刻#47610と名付けられました。

“Dynamic Earth”は、ランドスケープ生成の原動力です。地球は動いています。地震も起こります。地球は動いているのです。「霧の彫刻」は、私たちの地球へのオマージュであるとともに、ダイナミックな自然との対話を通して、千変万化する地球の姿を私たちに伝えてくれているのです。(中谷芙二子による作品コンセプトより)

茂原学芸員は、次のように続けます。

「当館の3階部分から水辺テラスを見下ろす形で『霧の彫刻』を見ると、山が一望できて、ときによってはその手前に自然の霧がかかり、『霧の彫刻』が風景と一体化していくように感じられます。『ランドスケープ・ミュージアム』というコンセプトで当館が風景の一部となることと、『霧の彫刻』という作品自体のあり方とが共鳴しているのではないかと強く感じます」

作品コンセプトから感じられる環境への眼差し

「霧の彫刻」が誕生したのは1970年。エンジニアのビリー・クルーヴァーやアーティストのロバート・ラウシェンバーグらにより結成された、アーティストとエンジニア、科学者が協働し、最新技術や科学と芸術の融合を目指すE. A. T(Experiments in Art & Technology)に参加した中谷が、同グループの活動の一環として物理学者トーマス・ミーとの共同作品として大阪万博のペプシ館で発表しました。

当時開発されたばかりの最先端の高圧ポンプと微粒子ノズルを駆使し、純水で人工の霧を発生させる「霧の彫刻」は、以降、大阪万博で実験的に発表したものをベースに国内外のさまざまな場所で手がけられてきました。

「中谷さんはもともと油絵を手がけていましたが、その際にも現象が変化することに非常に関心を持たれていました。とくに物質が腐敗する過程、生成する過程に着目されていたそうです。お父さまで物理学者の中谷宇吉郎(註)さんの視点からの影響もあったのだと思います。『霧の彫刻』に関しても、風や雨、温度、湿度など、常に変わり続ける環境への眼差しを映し出し、そうした変化を可視化する作品だということができます」

中谷が1960年代から持ち続けている、環境とアートの関係への視点が反映されたこの作品は、流動的な霧でありながら「彫刻」として発表されたことも特徴的です。彫刻というと、ブロンズや石などの重い素材による造形物や、木を彫り出した彫像などを一般的に思い浮かべがちですが、現在では素材や技法が多様化し、彫刻の定義にはさまざまな解釈が生まれていることもこの作品は感じさせます。

植栽や遠景となる山の景色も「霧の彫刻」によって新たな印象が生まれる。

学生時代に研究したヨーゼフ・ボイス

彫刻とはどう定義づけられるのかという話をしていると、「学生時代の専門がヨーゼフ・ボイスでした」と茂原学芸員。「社会彫刻」という概念を提唱したボイスは、人間のあらゆる行為は意識的に行われたのであればそれは表現のひとつであり、造形だと言えるといったコンセプトに基づいて活動を続けたアーティストです。

「彫刻は空間を立ち上がらせるものだと元々思っていました。どのような形のものをどのように置くかによって、その空間に変化が生まれるのが彫刻ではないかという考えです。しかし、ボイスの社会彫刻の概念もそうですし、素材も多様化しており、その概念は大きく変わってきたと思います。明確な答えが出たわけではありませんが、物理的なものに限らず、大気や気象の状況を可視化したり、何かの条件のもとに発生したり生成されたりするものを彫刻と呼んでもいいのではないかと、『霧の彫刻』を契機に改めて彫刻の概念についても考えさせられました」

薄く霧が広がるような状態の場所があれば、雲のようにもくもくと膨らんでいくような場所もあるように、風や地形の影響でさまざまな表情を見せる。

茂原学芸員がそもそもアートに興味を持つきっかけとなったのは、言語学や哲学を専攻していた大学時代に知った、平川典俊という現代アーティストの存在だったと言います。写真や映像、ダンス、インスタレーションなどの枠にとらわれることなく、多様な表現を展開する平川の作品を見て、「言葉を選ばずに言えば、アートってなんでもできるんだ、という衝撃を受け、その懐の深さに惹かれたのです」と話します。

東山魁夷の作品を常設展示する東山魁夷館の様子。

「現代美術に限らないことだと思うのですが、芸術には、既存のものに新たな視点を与え、今まで見えていたものを全く違うものとして見せてくれるような力があると思っています。私が大学院でボイスを研究するきっかけとなったのが、『すべての人間は芸術家である』という彼が残した有名な言葉に興味を持ったことです。美術や芸術がそばにあることによって、その人生が開かれて豊かなものになるのではないかと考えているので、図書館くらい誰にとっても当たり前のものとして、美術館が存在することを目指したいと思っています」

榊原澄人《飯縄縁日》(部分)2021年 映像作品を上映する「交流スペース」は無料で入場可能(土・日・祝日のみ上映)。

美術館は完成した作品を鑑賞する場であることに留まらず、多くのことができる場としての可能性を持っているはずです。長野県立美術館ではその考えが共有されており、交流というコンセプトを実現するための一環として、レクチャーパフォーマンスなどの先進的なジャンルも含む現代アーティストを招聘し、一定期間美術館に滞在して制作を行う過程や、完成作品を来館者に見ていただく公開制作を行うなど、新たな試みを続けていきます。

公開制作 vol.2 佐藤朋子 狐・鶴・馬(2022年)イベントの様子 提供:長野県立美術館

公開制作 vol.3 蓮沼昌宏 制作、テーブル、道(2023年)制作の様子 撮影:平林岳志 提供:長野県立美術館

マルセル・デュシャンと松澤宥の邂逅

国立アートリサーチセンターが全国の美術館と協働し、国立美術館のコレクションを活用する公募事業「国立美術館コレクション・プラス」の、2025年開催企画のひとつとして採択されたのが、長野県立美術館の企画です。

オブジェをテーマに、京都国立近代美術館が所有するマルセル・デュシャンの《泉》と《瓶乾燥器》を借用し、長野県出身の前衛アーティストである松澤宥の収蔵作品とあわせて展示が行われます。レディメイドの便器や瓶乾燥器にタイトルをつけて作品化したデュシャンと、「オブジェを消せ」という言葉を残しながらもオブジェを用いた作品も多く残した松澤の作品をどのように見せるか。展示に期待が高まります。

「2022年に個展を開催するなど、松澤は当館にとってとても重要な作家です。単なるオブジェを作品化した革新的な作家と、オブジェを消せといった作家との創出と消滅という対比にとどまらない見せ方で、オブジェを浮かび上がらせられないかと考えています」

屋外に広がる「霧の彫刻」に興味を惹かれる、長野県立美術館が位置する城山公園への来園者も多くいるでしょう。夏になると、美術館からすぐそばの噴水で遊ぶ子どもたちが、「霧の彫刻」の霧が発生するとともに美術館を目指して走り出す光景も当たり前になっているといいます。「屋根のある公園」を標榜する長野県立美術館を象徴する作品として、「霧の彫刻」はこれからも長野を訪れる人々を魅了していくはずです。

「霧の彫刻」を館の入口レベルから見た光景。

中谷宇吉郎(1900-1962)は物理学者で随筆家。世界で初めて人工的に雪の結晶を作ることに成功した。

【茂原学芸員による、推しポイント】

「推しの逸品」として中谷芙二子の《Dynamic Earth Series I》霧の彫刻 #47610を選んだ理由とは。茂原学芸員は「作品の重要性や、中谷さんの作家としての独自性を美術館としてきちんと伝えていくことは大事」だと前置きしたうえで、次のように話します。

「当館は公園と一体化している美術館なので、誰でも無料で見ることができて、子どもも含めて普段は美術館とあまり縁がない人にも、フワーッと広がって霧が濃くなっていくこの作品は楽しめると思います。もし子どもたちが、実はそれが中谷芙二子さんというアーティストの作品なんだということを学校などで知ることができるタイミングがあるとすれば、美術に触れる幼少期の体験として非常に豊かなものだと思います。また、冬を除いてこの作品をいつでも見られる国内の美術館は当館だけなので、当館の建物との関係も併せて楽しんでいただきたいと思い、『推しの逸品』として選びました」

茂原奈保子
しげはらなおこ


長野県生まれ。インディペンデントキュレーターとしての活動を経て、
2021年より、長野県立美術館に学芸員として勤務。現代美術家を招聘し、
一定期間をかけて制作を行う「公開制作」に最初のフレーム作りから携わっている。

(取材・執筆・撮影:中島良平)

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