2023.11.30

推しの逸品:コレクション・スポットライト Vol. 2 熊本県立美術館 野田英夫《学園生活》

お話を伺った人:山中理彩子 学芸員

野田英夫《学園生活》(ピードモント・ハイスクール壁画)1937年

美術館のスタッフが、自館のコレクションの中から「推しの逸品」、つまり皆さんに鑑賞してほしい一作品にスポットライトを当ててご紹介いただく連載企画。第2回では、地元熊本にゆかりのある作家の作品を幅広く収集し、地域の美術史を体系化するコレクション形成を目指す熊本県立美術館の山中理彩子学芸員にお話を伺いました。

山中理彩子学芸員。熊本県立美術館エントランス前にて。

アメリカの高校からやってきた壁画

国の特別史跡である熊本城の二の丸広場の一角に位置し、古代から現代美術までを網羅する総合美術館として1976年に開館した熊本県立美術館。ル・コルビュジエの弟子であり、国内外に数々の名建築を残したモダニズム建築の旗手、前川國男の代表作のひとつに数えられる建物も特徴的な美術館です。同館地下1階の吹き抜けホールで今回の「推しの逸品」を鑑賞できます。

中央が今回の「推しの逸品」である野田英夫《学園生活》。手前は舟越保武《道東の四季・春》1977年。

1908年、アメリカ・カリフォルニア州の日系移民家庭に生まれた野田英夫。日本の教育を受けるために、幼少期を両親の故郷である熊本で過ごし、旧制中学を卒業するとカリフォルニア州に戻り、ピードモント・ハイスクールに入学します。卒業後にカルフォルニア州の美術大学・サンフランシスコ・アート・インスティチュート(2022年に閉校)で美術を専攻した野田は、20代後半で母校のために壁画作品《学園生活》(ピードモント・ハイスクール壁画)を手がけました。山中学芸員にその経緯を伺いました。

「野田が壁画制作に携わるきっかけとなったのが、サンフランシスコ・アート・インスティチュートに設置する壁画を手がけたメキシコ出身の画家、ディエゴ・リベラとの出会いだったようです。完成直前に取り壊されてしまいましたが、ニューヨークのロックフェラーセンターでリベラが壁画を描いたときには助手を務めるなど、壁画制作への道を進んでいきました。そうしてキャリアを築くなか、美術の手ほどきを受けた高校時代の教師の働きかけによって、この壁画を制作することになったようです」

この作品ではありませんが、野田は別の壁画を制作中に作業台から落ちて頭を打ったことがあるといいます。結果的に脳腫瘍を患った野田は31歳で早逝しましたが、その2年前にこの作品を完成させました。

「推しの逸品」を前に作品説明をする山中学芸員。

画面下段に描かれた人物ふたりの目線

学校の図書館の通路の壁に制作された《学園生活》。画面上段の向かって右手に、生徒たちが演劇や体育、音楽などに励む様子が、左手には地球儀や顕微鏡などの研究に勤しむ姿が描かれています。「異なる場面を貼り合わせて1枚の絵に収める壁画特有の技法を野田は得意としていました」と山中学芸員は続けます。

「上段中央の男女ふたりが描かれた大きなキャンバスが目を引きますし、その背景には、サンフランシスコからオークランドへとつながるベイブリッジが描かれており、学内の生活とカリフォルニアの自然の両方を作品で見ることができます。また、画面下段のふたりの人物は、鑑賞者である私たちと同じ目線から上を見上げていて、そこには、狭い場所から広い世界を目指す今後の展望のような、若者の可能性のようなものを表現する意図が込められているのではないかと想像できます」

1991年、ピートモンドハイスクールで壁をそのままはずす工事が行われ、翌年に野田がかつて過ごした熊本の同館に収蔵されました。

中央でモノクロの絵画作品を手にする女性が、壁画制作に大きな関わりを持つ高校時代の恩師であり、その前で描いているのが野田本人だといわれている。

熊本県立美術館が目指す先

熊本県立美術館では、《学園生活》以外にも野田英夫の油彩や水彩、デッサンを62点所蔵するほか、熊本で暮らしたことのある藤田嗣治などの作品も収蔵しています。山中学芸員が担当し、この夏に開催された令和5年度国立美術館巡回展「20世紀美術の冒険者たち—名作でたどる日本と西洋のアート」(会期:2023年7月22日~9月18日)では、東京国立近代美術館の収蔵作品とあわせて、巡回先である熊本県立美術館と高松市美術館の作品も展示され、来館者からの反響は大きかったようです。

「20世紀美術の冒険者たち—名作でたどる日本と西洋のアート」展 2023年、熊本県立美術館

「東京国立近代美術館所蔵の重要文化財にもなっているような作品を当館で複数展示できたのはもちろんですが、当館が所蔵する藤田嗣治、大塚耕二や浜田知明の作品などもあわせて展示し、熊本に関わりのある作家たちを、近代から現代にかけての日本、世界の美術史と関連づけて紹介できたのはとても貴重な機会でした。しかし、絵画などに比べると、熊本の近代における写真やデザインの歴史には、研究の余地があると思います。私は写真やデザインの分野を掘り下げて研究したいと考えています。現在は、1876年に熊本に生まれて21歳で単身渡米し、1934年に帰国するまで30年余り、ロサンゼルスで写真表現を続けた熊本出身の河野浅八(こうのあさはち)という作家の調査を始めたところです」

河野浅八《Perpetual Motion》制作年不明 宇城市不知火美術館蔵

年2回の特別展と4回のコレクション展を開催する熊本県立美術館。熊本藩主細川家の16代・細川護立(もりたつ)の収集作品をベースとする永青文庫(東京)と連携し、細川家に関連するコレクションを展示する別棟も併設されており、趣の異なる展示が同時に楽しめます。

「前川國男のモダニズム建築にブロンズ彫刻などが並ぶ館内は、非日常の特別感を味わえる空間です。しかし美術館は、非日常の特別感を味わうだけではなく、多くの人が気軽に訪れられる場所であってほしいとも思っています。当館には、熊本城を訪れる外国からの観光客もお見えになります。そういった方向けには、スマートフォンのツールなども活用しながら対応をしていけたらと考えています。また、日ごろ美術館に来館する機会の少ない県内の小中学校を美術館に招待するなど、子どもたちの鑑賞の受け入れにも積極的に取り組んでいます」

前川國男が設計した建築空間と調和するようにブロンズ彫刻が並ぶ1階ロビー

【山中学芸員による、推しポイント】

山中学芸員は、今回の取材で「推しの逸品」に野田英夫《学園生活》を選んだ理由を次のように説明します。

「野田は日系移民の家族のもとでアメリカに生まれ、二重国籍者として複雑な状況に育ちました。有色人種としてアメリカの都市で暮らした背景からか、都市生活を送る人々の孤独で繊細な心を描くことが得意なようでしたし、共産党活動に参加し、人々が平等に暮らす社会を思い描き、実際に黒人の少年が被告とされてしまった冤罪事件を題材に絵画を手がけたこともあります。現在も、世界を見渡すと戦争などで国を追われてしまう人がいますし、移民に関する話など人権問題は日々取り沙汰されています。野田の作品をご覧いただき、作家の背景を知っていただくことで、そうした状況に置かれた人々について考え、他者の柔らかで傷つきやすい心への共感が生まれるきっかけにもなるのではないかと考えています」

熊本城の天守閣の麓に位置する非日常の特別感と、市民や観光客に開かれた場所としての身近さの両立を目指したいと意気込みを語る山中学芸員。厳かな建築空間に身を置いて野田英夫の《学園生活》を鑑賞できる、熊本県立美術館の今後の展覧会やコレクションの展開にも期待が高まります。

山中理彩子
やまなかりさこ


1992年、福岡県生まれ。2020年より、熊本県立美術館に学芸員(近現代美術担当)として勤務。

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