2023.09.28

香港、M+美術館の保存修復施設を見学して

作品活用促進グループ 主任研究員 鳥海 秀実

香港、M+美術館の保存修復施設を見学して

はじめまして

2023年4月に着任しました、作品活用促進グループ、保存修復担当の鳥海です。国立アートリサーチセンターに勤務するまでは、日本の近代洋画、イタリアの中世・ルネサンスからバロック、近代までの絵画や額縁、アフガニスタンのバーミヤーン壁画、書籍・文書などの紙資料の保存修復から、国宝キトラ古墳壁画の修理報告書編集まで、さまざまな文化遺産および芸術作品の保存修復や維持活動、記録作成などに携わってきました。

その経験を活かして、国立アートリサーチセンターでは、美術館における作品の科学調査・保存修復活動の推進に努めるとともに、ワークショップ・講演会等の開催やウェブサイトでの情報発信などを行い、国内外の保存修復に関する知識・情報の集約と共有を図ってまいります。

何のための保存修復?

はじめに、文化的遺産を保存する意義についてお話ししましょう。現代の私たちの世界は、人間の文化活動の多様性を認め、あらゆる文化的遺産をコンテクストから記録、保存する方向にあると思います。建築の分野では、個別の建造物から、伝統的建造物群保存地区や景観へと保護の範囲は拡大しており、広島の原爆ドームなど人類が犯した悲惨な出来事を伝える「負の遺産」も存在します。また、ユネスコの「世界の記録 Memory of the World」は歴史的記録を守り伝えようとするものですし、芸能、伝承、社会的慣習、儀式、祭礼、伝統工芸技術、文化空間などの無形文化遺産も保護すべき対象となっています。

近現代美術の分野でも、望ましい状態で未来の世代に作品を残すことが世界中で課題と考えられています。近現代の美術作品は、工業的に生産された材料を用いて制作されたものも多く、材質の劣化や修復方法については未知の領域です。フィルムのように近代以前は存在しなかったメディアや、高い天井高を必要とする巨大なスケールの作品、作家が作品の存続を意図しないで制作したものなどもあり、この分野を専門とした経験と研究の蓄積を必要としています。そのような中で、今回、国立アートリサーチセンターの香港・M+(エムプラス)美術館の視察に参加できたことは、大変貴重な経験となりました。

大規模美術館・M+

M+は、2021年11月に、近現代の視覚芸術をテーマとして、香港の西九龍文化地区に設立されました。美術館としてはアジア最大級の面積とコレクション数を誇ります。ヴィクトリア湾を臨む西九龍文化地区は、緑豊かな公園の中に、劇場や美術館、レストラン、店舗などが立ち並ぶ文化的・教育的エリアです。M+は約30部屋の展示室の他、映像を鑑賞できる動画センター(Cinema、Grand Stair、Mediathequeの3施設から成る)や、教育施設、資料アーカイブ、屋上庭園、ミュージアム・ショップ、美術館会員用ラウンジ、レストラン、カフェなどを有しています。ヴィクトリア湾の対岸から見えるM+の建物の巨大なLEDスクリーンは、いまや香港の夜景のランドマーク的存在となっています。

ヴィクトリア湾対岸から見たM+。草間彌生の展覧会の表示がスクリーンに映し出されている。

M+のコレクションは、20世紀から21世紀にかけてのヴィジュアル・アート、デザイン、建築、映像を核に約8,000点にのぼります。香港を中心にアジア、そして世界の視覚芸術の作品を網羅的に収集しており、材質のジャンルの枠にとらわれることなく、テーマに沿った展示を展開しています。この魅力的な展示を支えるのは、確固としたバックヤードと世界中の様々な国から集まった専門家たちです。キュレーターはもちろんのこと、コンサヴァター(保存修復専門家)、レジストラー(作品の管理を行なう者)、写真家、展示設営者などの専門家を十分な人数で確保しています。

保存修復施設の1階はガラス張り

M+の展示室がある建物の隣には、7階建ての保存修復・収蔵施設棟(CSF: Conservation Storage Facility)があります。

M+の正面外観。上部スクリーンの人影は、映像の一部。

LEDスクリーンの建物の背後に立つ保存修復・収蔵施設棟。

保存修復・収蔵施設棟の保存修復部門では、紙を支持体とする作品から、立体物、テキスタイル、動画まで、保存処置を行うことのできる設備と人材を揃えています。ガラス張りの1階部分には、香港の街中から取り外され修復中のネオンサインが展示されており、来館者が保存修復の意義や現状などを学ぶ機会を提供しています。

香港、西常盤(Sai Ying Pun)にあった森美餐廳(Sammy’s Kitchen)のネオンサイン。レストラン所有者のSammy Yipによるデザイン。1978年頃、Fu Wah neon workshop(1969年Pak-Fuk Chiu創立)製造。
2015年に現地から取り外され、M+のコレクションとなった。保存修復・収蔵施設棟1Fにて公開中(2023年7月現在)。

1976年、Universal NeonLigjts Co.製造。
2013年、M+に収蔵。保存修復・収蔵施設棟1Fにて公開中(2023年7月現在)。

戦後、香港のネオンサインは街の活力そのものを示すかのように無数に制作され、香港の都市景観を決定づける要素となりました。ネオンサインは、手作業で薄いガラスチューブを加熱して形を作り、ガス充填もしくは着色によって色がつけられました。しかし近年、劣化したネオンサインは安全上の理由から撤去され、照明は従来の蛍光灯から省エネルギーのLEDに取って代わられつつあります。M+はネオンサインの保存を通じて、地元香港の街の景観、産業技術、そしてデザインの分野にまたがる近代文化遺産の保存に取り組んでいます(註)。

世界の美術館では

M+の保存修復・収蔵施設棟は、保存修復専門家の意見を取り入れて考案され、作品の保存のために安全な環境を整え、保存修復専門家にとって合理的で使いやすい構造になっています。世界を見渡すと、現代美術を専門とした保存修復施設としては、ニューヨークの近代美術館、パリのポンピドゥー・センターなどがあり、先駆的な役割を果たしてきました。新しく建設されたM+は、これらと肩を並べる存在となるでしょう。

また、美術館の収蔵庫を郊外に新たに設置し、これに保存修復センターの機能を持たせる動きも世界的に活発にみられます。フランス北部のルーヴル美術館ランス別館近くのリエヴァンには、収蔵・研究・保存修復を目的としたコンサヴェーション・センターが設立されていますし、ポンピドゥー・センターもまた、フランス北部のマッシーに保存修復と作品制作のための拠点建設を計画しています。アジアでは、韓国の国立近現代美術館が、来館者が内部を見られる収蔵庫と保存修復室を備えた国立収蔵センターを韓国中部の清洲に設立しました。

むすびに

美術作品にとって、活用と保存は車の両輪の関係にあります。M+の展示および保存修復施設の見学は、作品活用と保存修復の世界の最新状況を知ることができ、大変有意義でした。この視察で得た知識や経験は、今後の国立アートリサーチセンターでの活動に還元してまいります。
(掲載画像はすべて筆者撮影)

ネオンサインに関する記述は、M+の公式ウェブサイトに記載されている内容を参照した。


Neon sign, Sammy's Kitchen, 204-206 Queen's Road West, Sai Ying Pun, Hong Kong (circa 1978) - Sammy Yip, Pak-Fuk Chiu | Objects | M+ (mplus.org.hk)

https://www.mplus.org.hk/en/collection/objects/neon-sign-sammys-kitchen-204-206-queens-road-west-sai-ying-pun-hong-kong-2015304/


Neon sign, Kai Kee Mahjong parlour, Yue Man Square, Kwun Tong, Kowloon (1976) - Universal Neon Lights Co. | Objects | M+ (mplus.org.hk)

https://www.mplus.org.hk/en/collection/objects/neon-sign-sammys-kitchen-204-206-queens-road-west-sai-ying-pun-hong-kong-2015304/


M+ Collects Neon | NEONSIGNS.HK 探索霓虹

https://www.neonsigns.hk/neon-in-visual-culture/mplus-collects-neon/?lang=en

同じカテゴリのNCAR Magazine

同じカテゴリの活動レポート

最新のNCAR Magazine

BACK