2023.09.28

酵素を用いた日本画のクリーニング

酵素を用いた日本画のクリーニング

東京国立近代美術館所蔵の作品に行なわれた修復事例について、担当の学芸員、酵素によるクリーニング方法を開発した科学者、実際に修復作業を行なった保存修復専門家の3名の専門家にそれぞれの立場からご寄稿いただきました。

保存修復は、美術史家・科学者・保存修復専門家が協力することでより理想的な成果にたどり着くことができると言われますが、今回は新技術の酵素を修復材料として使用した画期的な事例です。酵素は作品および環境に対してやさしく、クリーニングの効果も期待されています。今後、経年後の状態についても注意して観察したいと思います。

鳥海秀実 国立アートリサーチセンター 主任研究員 

【学芸員】 鶴見香織 東京国立近代美術館 主任研究員

どこの美術館でもそうだと思いますが、所蔵していても公開できない作品があります。そのうち一番多いのは修復待ちの作品です。例えば画面全体に濃い染みが雨霰のように散っている作品などは、あまりに不憫で人さまの御目に入れられません。そして残念なことに、そのレベルにまでなると染み抜きをしてももとどおりにするのは難しい。作品の評価額と修復にかかる費用の釣り合いを考慮する必要だってあります。そうした事情で後回しにしてきた作品を抱える私たちにとって、東京文化財研究所(以下、東文研)が開発した、カビとカビの分泌物だけに作用する溶菌酵素の情報はたいへん魅力的でした。

写真1 収蔵庫内における作品の保存状態の確認作業

当館は2017年度から東文研の協力のもと京都の岡墨光堂に委託し、この新しい酵素を用いた染み抜きを日本画作品に試行してきました。これまでに処置した23点はすべて1942年に開催された日本画家報国会主催軍用機献納作品展の出品作(以下、献納画)です。献納画は戦中戦後に過酷な環境にさらされたようで、1964年に東京国立博物館から当館へ移管されたときには、すでにカビ由来の染みが著しい状態でした。184点あるうちいくつかは移管後に修復と改装が行われましたが、他の多くは燻蒸だけ施され、収蔵庫で長く眠ってきたのです。

写真2 中村大三郎《春雨》1942年 絹本彩色 修復前

写真3 中村大三郎《春雨》1942年 絹本彩色 修復後

修復の協力体制はこうです。東文研とは共同研究を結び、酵素をご提供いただく。当館からはカビ痕著しい作品を供出し、修復を委託する。委託を引き受けた墨光堂には、作業を手掛けながら酵素を使いこなすコツを蓄積していただく。そして三者で経過を検証する。一連の試行で、この酵素が期待どおりに染みを分解することが確認され、分解後の残留物の除去方法も最適解が出つつあります。また、最初の試行から5年が経ちましたが、今のところ経過は良好であるようです。この酵素が便利な修復材料として一般化し、普及してゆくことを期待しながら、今後もさまざまな角度からの検証を継続して進めていこうと考えております。

【保存科学者】 早川典子 東京文化財研究所 保存科学研究センター 修復材料研究室長

美術品の上には、しばしばカビなどの微生物が発生します。初期の胞子の発生のみの場合は、筆やブラシなどで払うといった物理的な除去方法でのクリーニングが可能ですが、時間が経過したものの場合や細菌などとバイオフィルム(微生物やその代謝物の集合体で粘着物質)を形成していたりすると、クリーニングが難しくなります。

日本画などの東洋絵画や文書は水でクリーニングすることができるものの、多少、着色部分の色が薄くなる程度であり、さらに油彩画など、水を用いたクリーニングが難しい作品もあります。作品を傷めないよう、過剰な処置は避けられてきているのが現状です。

今回の事例は日本画で、水でのクリーニングでは状況の大きな改善は難しいと想定されたため、高松塚古墳壁画の修復で利用した酵素の使用が適していると考えられました。高松塚古墳では、壁画に発生したバイオフィルムを除去するために、溶菌酵素(株式会社耐熱性酵素研究所製、Enzyme mixture CTB1)と言われる細菌の細胞壁を分解する酵素を利用して、バイオフィルムを部分的に溶解させる方法が使われました。

  • 写真4 今回のクリーニングに使用した溶菌酵素
  • 写真5 榎本千花俊《銀嶺》(部分)1942年 絹本彩色 修復前

酵素は、微生物が産生するものですが、微生物そのものではなく、単なるタンパク質であるため、適切な条件を整えると効率よく目的の物質を分解し、そして他の材料には影響を与えません。この酵素は細胞壁のみに作用するため、万一残留した場合にも作品自体には影響を及ぼさない物質であり、使用後に過度の洗浄も不要となります。そのため、繊細な作品でのクリーニングに同様の効果が見込めると考えられ、実際に使用したのが今回の事例になります。

ただし、酵素を適用すればどのような場合でもクリーニングができるわけではなく、溶解のタイミングと、それに伴う洗浄作業の効果などは、微生物や作品の状態によって異なるため、その状況を正確に見計らう必要があります。今回は、作品の状態が安定していたことも効果が得られた一因となります。

また、作品の上の着色物質は必ずしも微生物そのものではなく、その代謝物が原因であったり、作品そのものが影響を受けて変色している場合もあり、様々な現象が絡みあっていることから、酵素を使用すれば全て解決するわけでもありません。今回の事例の場合、実際の作業を担当された方が、作品の状況も正確に把握された上で、酵素の性質をよく理解して適用できたことが効果的なクリーニングに繋がったと言えます。

【保存修復専門家】 名倉 絵美子 株式会社岡墨光堂

酵素を用いた染み抜きは、従来の染み抜き作業で主に使用されていた過酸化水素水による色素の漂白とは異なり、染みの原因と考えられるカビやカビの分泌物による着色汚れを分解し、物理的に除去することが可能です。これは染みの根本原因を解消し、絵画面全体をバランスよく処置することができるという点で非常に画期的でした。

本紙を仮張した状態で、まず染みの発生箇所に部分的に酵素の塗布を行います。より効果的に使用するために、酵素が活性化する40〜50℃程度に湯煎して温め、細く柔らかい毛の筆を用いて、染みにしっかりと行き渡るように塗布します(写真6)。修理の初期段階での作業のため、筆先の当たりによっては絵具層を損なったり、温かい酵素を必要量以上に塗布することで、絵具層が緩み、崩れてしまう恐れがあります。絵具の種類や、接着の状態をよく観察しながら慎重に処置を行います。

写真6  酵素塗布作業

酵素を塗布した箇所は、基底材の繊維や絵具層に固着していた汚れがほどけたような状態になり、周囲に輪染みのように広がります(写真7-2)。この酵素によって分解された汚れは、このままではその場所に留まってしまうため、水分を用いたクリーニングが必要不可欠です。酵素を塗布した後、本紙の下に吸水紙を敷き、画面全体に浄化水を噴霧します。そうすると染み汚れや本紙表面に付着した酸化物が浄化水と共に下に敷いた吸水紙に吸着されます(写真8)。水分をしっかりと通すことで、本紙に残る染み汚れを洗い流し、取り去ることが出来ますが、水の使用に際しては、絵具層の状態に注意を払いながら行うことが肝心です。

  • 写真7-1 修理前
  • 写真7-2 酵素塗布後
  • 写真7-3 修理後

写真8 浄化水を用いたクリーニング作業

作品ごとに絵具層の状態は異なるので、作業を開始した当初は少量の水分を与えて様子を見て、徐々に水分の使用量を増やしていきました。複数年度にわたる修理事業を経て、現在では効果を最大限に得られる水分量を見極めることが出来るようになりました。染みの状態によっては、低濃度の過酸化水素水も併用しますが、酵素を用いて染み汚れを極力取り除いておくことで、漂白処置の回数を縮減できます。修理前に画面上に散見された茶色の染みが、絵具層を損なうことなく除去され、鑑賞性の向上においてより成果を挙げることが可能となりました(写真9、10)。

写真9 修理前 顔や着物全体に茶色の染みが点在している。

写真10 修理後 染みが除去され、鑑賞性が向上した。

同じカテゴリのNCAR Magazine

同じカテゴリの活動レポート

最新のNCAR Magazine

BACK