鴨居玲の新たな側面に迫る展覧会
本展では、長崎県美術館所蔵の鴨居玲(1928-1985)の作品9点と、国立西洋美術館所蔵で、鴨居が強く感化されたスペインの巨匠ジュゼペ・デ・リベーラ(1591-1652)の作品《哲学者クラテース 》(1636年)を同時に展示し、鴨居の新たな作家像に迫りました。
長崎にもスペインにも関連ある作家・鴨居玲
鴨居玲は、現在の長崎県平戸市に本籍を持つ、いわゆる長崎ゆかりの画家です。そのため長崎県では、鴨居の生前から積極的に作品を収集し、姉の羊子とともに郷土ゆかりのアーティストとして調査研究を進めてきました。一方で長崎県美術館はスペイン美術を標榜する美術館として、長年にわたり数々のスペイン美術展を開催してきたと同時に、昨今では日西文化交流の観点から、同地で学んだ日本人アーティストにも目を向けるようになってきています。スペインに滞在した経験を持つ鴨居玲は、長崎ゆかりの作家であるとともに、スペインで学んだ日本人作家という側面をも併せ持つ、我々にとって極めて重要な作家なのです。
ご存知の通り、鴨居玲については、没後、現在に至るまで約5年おきに大規模な回顧展が開かれており、比較的知名度の高い画家と言えます。回顧展では、鴨居の初期から晩年に至るまで、おおよそ年代順に紹介されることが多いのですが、今回の展覧会では、「鴨居玲のスペイン時代」という、長崎県美術館ならではの切り口で、作品の新たな側面に迫ってみたいと考えました。
鴨居のスペイン時代
鴨居は1971年2月にスペインに渡り、約3年8カ月間を現地で過ごしますが、特に1971年夏にスペイン中部、ラ・マンチャ地方の小都市バルデペーニャスに移ってからは画家としての最盛期を迎えます。現地の村人たちをモティーフとした「老人」や「酔っ払い」のシリーズは、人間の喜怒哀楽をカンヴァスに映してきた鴨居の真骨頂として、画業の頂点を成す作品群となりました。重要なのは、鴨居が滞在した1970年代前半のスペインはいまだフランシスコ・フランコの独裁政権下にあり、閉ざされた社会だったということです。その純粋培養ともいえるスペイン独特の風土や人に触れることで、解き放たれたかのように旺盛な制作活動をしていったのです。
一方で鴨居はマドリード在住期、プラド美術館に通い詰めていたことが分かっています。そこでスペイン・バロックの画家やフランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)など巨匠たちの作品を目の当たりにしました。おそらく直感的に、彼らの作品世界に自らが目指すべき何かがあることを感じ取ったと思われます。そのなかでも特に惹かれたのが、スペイン黄金世紀を代表する巨匠のひとり、ジュゼペ・デ・リベーラでした。鴨居はプラド美術館をはじめとする国内各地の美術館で数多くのスペイン美術の作品を実見し、さらにバルデペーニャスにて現地の人々と心の通い合う交流をすることで、おそらくスペイン人の精神にどっぷりと浸かったのでしょう。今回の展覧会は、これまで語られてきた以上に、鴨居がスペインの文化・芸術の真髄に肉薄していたということを示すのが目的でした。
長崎県美術館とプラド美術館
さてここで、長崎県美術館とプラド美術館との関係について話しておきましょう。2005年に開館した長崎県美術館は、その前年にプラド美術館と友好促進に関する覚書を交わし、さらに2009年からは数年に一度プラド美術館に学芸員を派遣し、調査研究に従事させるという方針を打ち出しました。私はその第一号としてプラド美術館に派遣され、約1か月間の研修を受けることになりました。直接巨匠たちの作品を調査研究するという目的ではありませんでしたが、研修中はフリーでプラド美術館の展示室に入ることができるので、時間を見つけてはスペイン美術を堪能するという、今から考えるととんでもなく幸福な日々を送りました。また週末は国内各地を旅行し、数多くの美術館や教会を見て回りました。そこで出会ったスペイン美術作品の数々は今なお脳裏に刻まれています。
「リベーラと鴨居の作品を並べて展示してみたい」
その後も展覧会の準備などで何度もスペインに渡り、少しずつですがスペイン美術を理解するようになってきた私は、いつしか「リベーラと鴨居の作品を並べて展示してみたい」と思うようになりました。今回、幸運にも国立アートリサーチセンターからお話をいただき、夢を実現させるまたとないチャンスが訪れたのです。国立西洋美術館が所蔵する《哲学者クラテース》は、実在の老人をモデルにした、リベーラの典型的な作品といえるでしょう。鴨居がプラド美術館で見た、聖人や哲学者たちを描いた作品同様に、リベーラならではの芸術思想がこの作品においても貫かれています。
両者の作品を並べてみたら
鴨居がリベーラから多くを学んだことについては過去の展覧会図録において幾度となく指摘されてきましたが、実際に両者の作品が同じ部屋に並んだことは初めてでしょう。会場では、リベーラの作品を部屋の中心に配し、その左右両脇にそれぞれ鴨居の「スペイン時代以前の作品」4点と「スペイン時代の作品」5点を並べました。正直に言えば、実際に展示するまでは、両者の作品を並べて展示することが、両者にとってどのような効果をもたらすのか予想ができていませんでした。しかし会場で見渡すと、鴨居のスペイン時代の作品群に、リベーラを経たということが明確に見て取れたのです。
特に人物の額にスポットライトのように当たる光を中心にして、そこから空間を創り上げる手法は、リベーラ絵画を踏襲した証左といえるでしょう。また老人や乞食、そして傷痍軍人など社会的弱者たちをモティーフにするという考えは、19世紀以降のスペイン絵画にも通じるものです。この時代、鴨居は我々が想像していた以上にスペイン美術に近づいていたことが明らかになりました。
スペインで学んだ日本人画家たち
ここで断っておきたいのですが、本展は鴨居の絵画技法や考え方をリベーラの影響下に置くことを目的としたものではないということです。あくまでも鴨居がスペインの風土に身を置き、その空気の中で何を摂取していったのかということを具体的なスペイン美術作品を通して示したかったのです。それはさらに大きく言えば、戦後の日本人作家が当時ヨーロッパの片田舎だったスペインに何を求めて渡ったのかを考えることにもつながるでしょう。
鴨居はスペイン滞在中、マドリードに絵画留学をしていた若い日本人画家たちと数多く交流しています。私が実際に取材した和田義彦(1940-2016)、藪野健(1943-)、加藤力之輔(1944-)、市橋安治(1948-2019)など、枚挙にいとまがありません。特にプラド美術館で模写をしていた画家には鴨居から声をかけていたようです。鴨居はすでに日本の洋画壇で確固たる地位を築いており、さらに彼らとは年齢差もあったため、互いに切磋琢磨するという対等な関係ではありませんでしたが、次々と傑作が生みだされるアトリエを訪れた彼らに強烈なインパクトを残しました。日本人画家によるスペイン美術受容という観点からも鴨居は重要な存在なのです。
長崎県美術館では、将来的にスペインで学んだ日本人アーティストを特集した展覧会を開催できないものか画策しています。その足がかりとしても本展は非常に意義深いものでした。
展覧会を終えて
今回の展覧会は、見慣れたはずの収蔵作品に新たな側面が浮かび上がる稀有な機会となりました。お借りした作品たった1点による比較展示ではありましたが、コレクションの潜在的な魅力を引き出すには十分な効果があったと思います。
最後になりますが、国立アートリサーチセンターのスタッフの皆様、国立西洋美術館研究員の皆様をはじめ、本展を開催するにあたり様々な形で関わってくださった皆様方に心より感謝を申し上げます。
(註)「国立美術館 コレクション・プラス」は、国立アートリサーチセンターが中心になって進めている新しい取り組み。全国の美術館等と協働し、国立美術館のコレクションを活かして、地域の美術館のコレクション展示をより充実させることを目指す。
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