講演

「みえるものの向こう側」

講師:
神野真吾(じんの しんご | 千葉大学教育学部 准教授)
講師略歴:
1993年東京藝術大学大学院修了、東京大学社会情報研究所(現情報学環)研究生を経て、1995年より山梨県立美術館学芸員として「現代美術百貨展」(2000年)、「新版日本の美術」展(2002年)などの現代美術展を企画。2006年より現職。WiCAN(千葉アートネットワーク・プロジェクト)を主宰。


講演要旨: 以下は神野氏の講演を大幅に要約、再構成したものです(編集部)。

前提の確認:「鑑賞」という言葉

まず、前提として「鑑賞」という言葉の意味を確認したいと思います。

英語で鑑賞は「Art appreciation」。appreciationというのは、評価、批評という意味も持っています。評価・批評とはなにかしらの価値づけに関わる主体的な行為だという意味が英語には含まれています。

日本語の「鑑」は規範です。「賞」にはめでる、楽しみ、味わうという意味がありますから、日本語の鑑賞は「自分の外にある規範をわかる」という意味の言葉です。

21世紀型能力として鑑賞が重要とされるのは、前者の評価・批評の方になろうかと思います。批評には、単に色や形といった造形要素による刺激だけでなく、知識とそれによって形成される文脈が必要になります。それについて今日はお話しします。



零戦が引き起こす感情

これは、千葉幕張の空を飛ぶ旧海軍の零式艦上戦闘機の写真です。2017年5月の「エアレース」というイベントでのことです。感性を用いて、わたしたちのまわりのものやことについて価値判断すること、つまり、美術や図工での鑑賞の学びが、実際の生活の中でどのように生かされるべきか、その一例として話をしたいと思います。

この飛行は、好事家がお金をかけて復元した零戦の「里帰りプロジェクト」です。「日本人が所有している」「日本人パイロット」「4機のみの希少性」「日本のものづくりの原点である」が強調され、朝日新聞、産経新聞など多くのメディアでも紹介されました。



私が気になったのは、ネット上で見られた「おかえり!」という多くの感傷的な投稿です。

いくつかのツィートを見て分かる通り、ここで使われている「おかえり!」は、きわめて曖昧で情緒的なものです。どこからどこへ、誰が返ってきたのか?これらの発言をしている人たちはおそらく誰も明確な答えを持っていないはずです。ある意味、感情をもてあそんでいる。そしてその人たちにとって、辛うじて根拠になっているのは「日本人パイロットの操縦により、零戦が日本の空へ里帰りする、歴史上初の出来事」ということです。他にも「かつて日本が誇った技術」「平和への願い」などがあげられます。

これらはきれいな言葉ではありますが、実は真実に基づいていません。多くの歴史資料は、その機体が技術的貧困ゆえに人命を軽視して生み出されたことを語っています。また平和への願いと戦闘機とは直結しません。こうした曖昧な根拠により感情が動かされ、「おかえり」という言葉を発し、涙を流す人がいるということは健全な状況なのか。これは鑑賞の学びを考える上で重要な問いなのです。

感性に基づく判断を行なう際には、文脈がきわめて重要だと言うことが分かるかと思います。間違った文脈であれば、私たちの感情は偽物の感情になってしまいます。

他にも考えるべき事例が最近多く起こっています。相模原の障害者施設の事件は、障害者一人ひとりを個性的存在として認めていないことが背景にありました。ヘイトスピーチ、いじめ、排除、差別、不寛容、印象操作…これらの問題についても同じです。目の前にある存在の背景にある豊かな文脈を無視し、自分の限られた、偏った情報・見方に因って感情を生じさせています。これらは美術を支える構造と無関係ではありません。



「なんだこれは」の意味

感性と美術の問題を考える時、私はまず、岡本太郎の「なんだこれは」という言葉を思い出します。これは芸術の本質を突いている名言だと思います。

「余計なことしてないで早く○○しなさい!」と誰もが子どもの頃に言われたことがあるでしょう。大人にとっては何の価値もない石ころも、子どもにとっては「なんだこれは」という新鮮な対象となり、所有したくなったりもします。しかし、大人になるとそんなことしなくなります。つまり「なんだこれは」がなくなってしまう。人間は基本的に、概念的に世界を理解しようとする動物です。なぜなら毎日感性的に新鮮な目でまわりの環境を見ていたら一向に先には進めないからです。効率よく生きるため、概念を増やして、いちいち「なんだこれは」をしなくて済むようにするわけです。子どもが「なんだこれは」と発見することが多いのは、持っている概念がすごく少ないからです。

ある意味、美術は、効率よく生きるために捨ててきたものを取り戻す行為だと言えるでしょう。色とか形の美しさや面白さに感動しなくたって生きてはいけます。それどころか効率的に生きるには、そんなものは邪魔なものかもしれません。しかし、概念的に知っているものでも「なんだこれは」が起こることがあります。その一つが感性的認識です。鑑賞する際には、色や形などの概念に収まりきらない過剰な「感性的情報」を対象から受け取っている状態ですが、アート作品は「なんだこれは」のきっかけとなり、思考を促す存在なのです。



ジル・ドゥルーズは「人間は基本的に考え(たく)ない動物」だと言っています。ある程度の知識(概念)を身につけてしまえば、それを使い回せばいいので、人間がものを考えること(必要)などめったにないと。これは鋭い指摘です。

そうすると、人間が考えるのはどんな時なのでしょう? ドゥルーズは、ショックを受けて考えなきゃならない状況に否応なしに置かれた時だと言います。つまり概念の枠に収まりきらない強い感性的体験をしたときのことを指していると言えます。そして美的体験や崇高体験は強い感性的体験そのものです。 感性的刺激を受けて「なんだこれは」と考え始めます。さてその向こう側には何があるのでしょう。



感性の生かし方

感性的な刺激に反応するだけなら「なんだこれは」でおしまいです。それではその経験は流れ去ってしまい底の浅いもので終わってしまいます。作品はもの自体に本質が備わっているのではなく、それをどのような文脈で見るのかによって意味が異なるのだということを指摘したのはマルセル・デュシャンでした。もう100年も前のことです。しかし日本の美術では、文脈は軽視されるか、単純化される傾向にあります。作品の形態や色彩などの造形性、つまり、表面の感性的な刺激ばかりに光が当てられています。

今年行なわれた草生彌生展は、50万人もの入場者を得たと聞いています。性的強迫観念に苦しみ、それとの折り合いをつけ生るために表現活動を行なってきたこの芸術家は、今では水玉の女王、奇妙な赤い髪の毛のカワイイおばあちゃんとして受容されています。50万人のうち、彼女の苦しみを受け止めた者はどのくらいいたのでしょうか?

それ以外にも、2016年のフジロック・フェスティバルについて、音楽での政治・思想表現に拒否感をもつ発言がネット上に広まったことも、音とリズムの心地よさだけが音楽だと思っている人達が多くいることを突き付けました。「学芸員はがん。連中を一掃しないと」という山本地方創生相の問題発言も、文化を単純視し、経済的利益を生み出す観光資源としてしか見ていないゆえのものです。これらは、実は同じ構造から生じています。正確な知識・情報を根拠とした文脈が踏まえられず、感情がそのまま肯定されるという構造です。表層的な刺激に根拠を求め、個人の限定的な想像力のみで対象を解釈しようとする態度です。

冒頭でお話しした零戦の話に戻ると、零戦の形態が美しく、空を飛ぶ姿が惹きつけるものであったとしても、その機体に関する様々な角度からの知識・情報について知らなければ、その感情を価値あるものとして一般化することはできません。むしろ形の美しさ、語りの魅惑性が私たちを惑わすことの危険性を知らなければならないのだと思います。

表層にのみ美術/アートの価値を求めるのではなく、その向こう側に分け入る想像力、そしてそれによって自身で判断することにこそ美術/アートの価値があります。感性的喜びにのみ価値があるわけではありません。それどころか、感性をきっかけとしてその向こう側について深く見ていき、自身の価値判断を行なおうとすることが重要なのです。感性と知性の高次の調和、それこそが美術科・図工科にしかなしえない技能であり、この教科が、そして鑑賞が、社会の中で主体的に生きる上で重要な根拠でもあります。そして、私たち美術に関わる大人はこのことを認識して美術を教えることに関わらなければなりません。