国立アートリサーチセンター(NCAR)で働く人々をシリーズで紹介します。第3回では、美術館の所蔵作品と深く関わる作品活用促進グループに焦点を当てます。
グループの活動を構成するふたつの軸
国立美術館が所蔵するコレクションの活用促進と、美術館における作品の科学調査・保存修復活動の推進。作品活用促進グループは、そのふたつを活動の軸としています。今回の記事では、コレクションの活用促進を目指して企画された連携事業「コレクション・ダイアローグ」と「コレクション・プラス」、作品の保存修復に関する知識や情報の集約と共有を目指して開催されるワークショップや講演会の紹介を通して、作品活用促進グループの取り組みをお伝えします。スタッフ4名に話を聞きました。
プロフィール
大谷省吾 グループリーダー 東京国立近代美術館で主任研究員を経て、2022年より副館長を務める。2022年4月、国立アートリサーチセンター設置準備室より現職を兼任。
田中正史 副グループリーダー 公立美術館で学芸員として勤務し、市立美術館の新規開館と県立美術館の建て替え開館に携わった経験を持つ。2022年10月、設置準備室の段階で国立アートリサーチセンターに入職。
鳥海秀実 主任研究員 国内外のさまざまな美術作品、文化遺産の保存修復や維持活動、記録作成に携わったのち、2023年4月より現職。
中尾優衣 主任研究員 京都国立近代美術館、東京国立近代美術館 工芸課および国立工芸館で勤務したのち、2024年4月より現職を兼任。
コレクションの活用促進のための2事業
国立美術館では2003年から2024年まで、所蔵作品の効果的な活用を目指し、全国各地の美術館における鑑賞機会の充実を図るとともに、人々に近・現代美術に興味を持ってもらうために、毎年、国立美術館のうちの1館が、そのコレクションを各地の美術館で展示する「国立美術館巡回展」を行ってきました。例えば、ある年の担当は東京国立近代美術館で、そのコレクションを〇〇県立美術館と□□市立美術館で展示し、その翌年は国立国際美術館のコレクションをまた違う美術館で巡回展示する、といったように、年度ごとに担当館を交替しながら国立美術館のコレクションの鑑賞機会を各地で設ける取り組みです。
意義ある事業ではあるものの、国立美術館のコレクションを展示するための「貸し会場のようになってしまう」という問題点もあったとグループリーダーの大谷省吾は話します。
「国立美術館巡回展の会場となる各地の美術館も、それぞれのコンセプトに裏付けられた魅力的なコレクションを所蔵しています。各地の美術館の学芸員が国立美術館のコレクションを活用し、自館のコレクションと関連付けて紹介する企画を立てることができれば、展示企画へのモチベーションが上がるでしょうし、国立美術館のコレクションを新たな角度から捉えられる機会にもなるのではないかと考えました」。
国立美術館のコレクションを各地で公開することに加え、各地の美術館のコレクションの活性化も視野に入れて立ち上げたのが、「コレクション・ダイアローグ」と「コレクション・プラス」というふたつの公募事業です。
国立美術館と地域の美術館とが協働し、両者のコレクションを特定のテーマのもとに企画構成する展覧会「コレクション・ダイアローグ」と、地域の美術館のコレクション展示に、関連する国立美術館コレクションを1点から数点加えることで、美術館のコレクションの魅力を引き出す特集展示「コレクション・プラス」。国立美術館と地域の美術館のそれぞれのコレクションを活用し、対等な関係でコラボレーションを行うのが前者で、地域の美術館のコレクションを主としながらも、普段のコレクション展示では来館者に気づいてもらいにくいその作品の魅力にあらためて光を当てるために、関連する国立美術館の作品を役立ててもらおうというのが後者です。
2023年に第1回の公募が実施され、現在、「コレクション・ダイアローグ」は2025年の開催に向けて準備が進められています。一方の「コレクション・プラス」は、2023年にプレ事業として「鴨居玲のスペイン時代 スペイン・バロックの巨匠ジュゼペ・デ・リベーラの作品とともに」と題する展覧会を長崎県美術館で開催(会期:2023年4月7日~6月11日)。長崎ゆかりのアーティストで、1971年からおよそ3年8ヶ月をスペインで過ごした鴨居玲(1928–1985)の作品9点と、スペイン・バロック時代の画家、ジュゼペ・デ・リベーラ(1591–1652)の作品を同時に展示しました。
鴨居は、スペイン滞在中、プラド美術館に通いつめていたことがわかっています。黄金時代と呼ばれる16世紀末から17世紀にかけてのスペイン美術に傾倒した鴨居が、なかでも特に惹かれたのがジュゼペ・デ・リベーラでした。展示室の中央にリベーラの作品《哲学者クラテース》(1636年 国立西洋美術館蔵)を配し、鴨居のスペイン時代以前の作品4点と、スペイン時代の作品5点を両脇に並べることで、鴨居がスペインの風土に身を置き、その空気から何を摂取したのかを想像させる企画となりました。
詳しくはこちら【活動レポート】収蔵作品の潜在的な魅力を引き出した「国立美術館コレクション・プラス」
2023年度に採択された「コレクション・プラス」第1回の企画が、現在、栃木県立美術館で開催されています(会期:2024年10月26日~12月22日)。栃木県立美術館が所蔵する、栃木県出身の画家・刑部人(おさかべじん 1906–1978)の作品6点と、国立西洋美術館所蔵の画家ギュスターヴ・クールベ(1819–1877)の作品2点をともに展示する「コレクション展III 刑部人とギュスターヴ・クールベ 風景画家たちの眼」です。栃木県立美術館とのやりとりを担当した副グループリーダーの田中正史は次のように話します。
「2023年に国立西洋美術館で開催された展覧会『憧憬の地 ブルターニュ —モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷』に、栃木県立美術館が所蔵する小杉未醒(みせい)(放菴 ほうあん)の作品が展示されたのですが、その際、国立西洋美術館と栃木県立美術館の担当者の間で、『コレクション・プラス』のことが話題になり、今回の企画につながったようです。国立美術館は所蔵作品のデータベースを整えていますし、もともと国公立や私立を問わず、美術館同士は、作品の貸し借りを通じて密接な付き合いがあります。その関係性のなかから『コレクション・ダイアローグ』と『コレクション・プラス』の魅力的な企画が出てくることに期待しています」。
国内の各地の美術館が、それぞれに特徴を持ち、優れたコレクションを所蔵しています。有名なアーティストの名前を前面に押し出した企画展に来館者が集まりがちですが、各地の美術館の所蔵作品だけでも、充実した内容の展覧会を開催することができます。特にコロナ禍以降、美術館のコレクションの価値が見直されており、所蔵作品を活かした展覧会も注目されるようになってきました。
2025年度からは、「コレクション・プラス」の実施館を年間3館にすることを予定しています。国立館のコレクションを活用した魅力的な企画が増え、開催実績が増すことで、日本各地の美術館のコレクションに注目が集まるはずです。
保存修復の技術と理念
美術作品の保存修復に関する事業としては、世界の第一線で活躍する保存修復専門家による実践をともなうワークショップと、その専門家による講演会を毎年行っています。ワークショップ当日の講義内容は、講師が日本語話者でない場合すべて日本語に逐次通訳し、スライドは事前にすべて日本語に翻訳して配付するほか、参考文献等もあらかじめ紹介して予習できるようにしています。
そして重要なのは、講義やワークショップの内容を発信すること。ワークショップは、実施するスペースや、用意できる材料の量が限られているため、参加者を20人程度に絞らなければなりません。応募しても参加がかなわなかった人はもちろんのこと、美術作品の保存修復に関心をもつあらゆる人がその情報を参照できるように、開催後には、図や記録画像を入れた報告書の作成や、記録動画の配信などを通して実施内容を共有します。
保存修復分野の技術や情報は日々進展しているため、常に新たな知識と技術の習得を心がける専門家にとって、ワークショップの内容はとても貴重な情報源となっています。
2023年度は、東京文化財研究所と共催で「文化財修復処置に関するワークショップ—モジュラー・クリーニング・プログラムの利用について—」を実施しました。
講師としてお招きしたのは、アメリカ人保存修復専門家のクリス・スタヴロウディス氏。作品のクリーニングに使用する溶媒の配合をコンピュータでプログラム化した、モジュラー・クリーニング・プログラムの開発者であり、世界各地で70回以上にわたり同プログラムのワークショップを行ってきた人物です。
3日間にわたるワークショップには、油彩画や東洋絵画、仏像、工芸品、染織品、洋紙など、さまざまな分野の保存修復専門家が参加。70名が午前の基礎的なクリーニング理論と同プログラムに関する講義を受講し、午後にはそのうちの21名が、クリーニング溶液の調製とさまざまな材質の試料に対してクリーニング・テストを行う実習までを履修しました。
保存修復担当の鳥海秀実は、ワークショップのテーマに作品のクリーニングを選んだ意図を次のように説明します。
「保存修復の技術は、かつては徒弟制により受け継がれていましたが、現在では、大学で学位を取得し学術的に学ぶものと考えられています(参照リンク:ICOM-CC「保存修復専門家:職業の定義」【和訳】、E.C.C.O.「専門的ガイドライン(3)教育」【和訳 】)。
今回お招きしたスタヴロウディス氏の保存修復のアプローチは非常に論理的で、pH(水素イオン濃度)や導電率を段階的に変え、界面活性剤、キレート剤、ゲル化剤などを添加した 溶媒を何十種類も用意し、どのような場合に対してどの溶媒が適しているのか、その効果をデータ化しています。
彼からモジュラー・クリーニング・プログラムの開発意図や内容を学ぶことで、美術作品を構成する物質に関する全般的な考え方、保存修復に対するアプローチの姿勢が大きく変わるのではないかと考え、NCAR主催の保存修復ワークショップの初回のテーマに作品のクリーニングを選びました」。
ワークショップの翌日には、同じくスタヴロウディス氏を講師に、「近現代美術の保存修復—ジャクソン・ポロック作品の事例から—」と題する講演会を開催し、92名が参加しました。
講義の参加者は、アメリカの画家、ジャクソン・ポロック(1912–1956)の《ナンバー1》(1949年)をロサンゼルス現代美術館で調査・修復したプロジェクトの事例紹介を通じて、ワークショップのテーマとして取り上げた、コンピュータ・データベースを利用して科学的にアプローチする、新たな保存修復の技術にふれることができたのはもちろんのこと、保存修復は、保存修復専門家自身の観察力、分析力が求められる分野であることをあらためて認識する機会となりました。
ワークショップと講演会の内容は、NCARサイト内の「活動レポート」で紹介しています。
詳しくはこちら 【保存修復ワークショップ開催報告】「文化財修復処置に関するワークショップ—モジュラー・クリーニング・プログラムの利用について—」、【保存修復 講演会動画】「近現代美術の保存修復—ジャクソン・ポロック作品の事例から—」
2024年度は、写真の保存修復専門家をお招きし、写真の識別と保存をテーマとしたワークショップを東京文化財研究所と共催で実施し、また、アナログ写真の発展と文化遺産としての写真の保存に関する講演会も開催しました。グループリーダーの大谷はこう続けます。
「日本美術や工芸などの伝統文化に関しては、これまでに保存修復の研究の積み重ねがあります。しかし近現代の美術について、特に20世紀後半以降の美術作品は、保存修復の歴史がまだ浅く、修復に関するガイドラインを検討する必要があります。
例えば、蛍光灯を使った作品は、蛍光灯が製造されなくなったらLEDに交換してもいいのか、あるいは、ビデオテープに収録された映像作品は、ビデオテープを再生できなくなったら作品は鑑賞できなくなるのか、あるいは異なる媒体に移して鑑賞するのか、その媒体とオリジナルのビデオテープでは画質が異なるのではないかなど、工業的に生産された材料を用いた作品は、材質の劣化や修復方法について未知の領域だといえるでしょう。
保存修復の倫理観や方法論を作家や作品の所有者などが共有しておかないと、近い将来、オリジナルの状態で作品を鑑賞することができず、画集の図版でしか見られなくなってしまうというような悲劇が起こりえますので、近現代美術の分野でも、望ましい状態で未来の世代に作品を残すために、保存修復の経験と研究の蓄積が喫緊の課題です」。
科学調査から広がる可能性
保存修復に関連する事業として、同グループでは美術作品の科学調査にも取り組んでいます。主任研究員の中尾優衣は、国立工芸館に勤務していた2023年、自身が作品管理を担当していた、図案家・杉浦非水(1876–1965)のポスターを対象とする科学調査への協力をNCARに依頼しました。その時の思いを中尾はこう話します。
「学芸員は、作品を他の美術館に貸し出す際、作品が戻ってきた時に異状がないかを確認するために、作品の状態を細部まで記録して資料を作成します。ある時、杉浦非水のポスターを貸し出す機会があり、作品の状態を点検していたところ、照度の低い場所では茶色い顔料にしか見えなかった箇所が、LEDライトの明るい光の下だとキラキラ光って見えました。
素材が紙の作品は、紫外線などによって劣化が進むため、良好な状態を保ちながら作品を未来に引き継いでいくために、あまり強い照度の下で展示しないように注意する必要があります。
それまで何度も見ていた作品ですが、その輝きはその時初めて気づいた発見でした。光って見えるのは顔料によるものなのか、印刷技術によるものなのか、また、非水の意図を詳しく知りたい、それが作品の研究や保存に何か役立つのではないだろうかと思い、NCARに科学調査の協力を依頼することにしました」。
科学調査は、杉浦非水が手がけた原画をもとに印刷された、ポスターや雑誌の表紙などが対象となりました。高解像度のマイクロスコープや、蛍光X線分析により色材の調査が行われ、また、補足調査としてポスターの発注者である三越呉服店がどのような技術を有する印刷会社に依頼したのかなどの周辺情報も調査されました。その結果、金色を表現する印刷に真鍮の粉が使用されており、当時はそれがおそらく現状よりも明るい金色に輝いていたはずだということがわかりました。中尾は次のように続けます。
「今回の調査により、当時の印刷技術と美術の表現が、想像していた以上に密接に関わっていたことがわかってきました。この科学調査の成果は、調査に参加したメンバーの共同執筆で論文にまとめ、東京国立近代美術館発行の学術雑誌『研究紀要』に掲載する予定です。
こうした科学調査の成果は、美術史の研究にとどまらず、作品の保存にも役立つ重要な情報の蓄積につながるのではないかと考えています」。
美術作品を楽しみ、また、よい状態で未来に受け継いでいくためには、作品活用と保存修復という両輪のいずれもおろそかにするわけにはいきません。作品活用促進グループでは、「コレクション・ダイアローグ」と「コレクション・プラス」を通して豊かな鑑賞体験を提供し、同時に、その背景に欠かせない保存修復の正しい知識、新たな技術の必要性を発信・共有していきます。
(取材・執筆・集合写真撮影:中島良平)