2023年8月、国立アートリサーチセンターのアクセシビリティ事業の一環として「DEAI(であい)リサーチラボ」*という研究会を発足しました。
「DEAI」とは、Diversity(多様性)/ Equity(公平性)/ Accessibility(アクセシビリティ)/ Inclusion(包摂性)の4つの文字の頭文字をつなげたアクロニム(略語)です。「DEAIリサーチラボ」では、この世界的な潮流となっているDEAIの理念についてリサーチするとともにミュージアムの「アクセシビリティ」の基準を底上げするための具体的な方法や要件を検討していきます。この研究会では外部から4名の専門的知見を持つ方々に参加いただき、初年度として「ミュージアム**における合理的配慮」について、具体的事例とともに理解を深める活動をしています。「DEAI調査レポート」では、ラボメンバーが調査した事例を紹介していきます。
第1回調査記事レポートとなる本記事では、国立アートリサーチセンターのラーニンググループに客員研究員として所属する伊東俊祐が、当事者の立場から耳が聞こえないことでのミュージアムでの困りごとについて書きました。
*「DEAIリサーチラボ」ならびに「合理的配慮」については、調査研究レポート「DEAIリサーチラボ発足と『合理的配慮』について」をお読みください。
*本記事で出てくる「ミュージアム」には、美術館だけでなく、考古・歴史・民俗・文学などの人文科学系博物館、自然史・理工学などの自然科学系博物館や、水族館、動植物園のほか、資料館や記念館なども包括的に含まれています。
はじめに
国立アートリサーチセンター(以下、NCAR)・ラーニンググループが進める事業「DEAIリサーチラボ」の初回記事に、「聴覚障害」をテーマとして選びました。なぜなら、私自身が生まれながらにその当事者でもあるからです。昔からミュージアムに親しんできた私個人の体験も踏まえ、さらにNCARに着任する前から障害者の生涯学習や文化芸術をテーマとして、国内外の美術館や博物館のリサーチを進めてきました。本記事では、そうした経験からみてきた課題や現状について紹介したいと思います。
“耳が聞こえない”とは?
“耳が聞こえない”という状況は見た目では認識しづらいため、どのような困りごとがあるのか、周囲からは把握や理解がされにくい部分があります。その一方で、“耳が聞こえない”といっても一概に語ることはできません。生まれつき、あるいは途中から聞こえない・聞こえにくい方、加齢に伴って聴力が低下する方、手話言語(日本手話)ないしは音声言語(音声日本語)のいずれかを第一言語とする方、補聴器や人工内耳、音声認識システムなどのテクノロジーを活用される方など、その人の聞こえ方やコミュニケーションの方法には様々なグラデーションやバラエティがあり、個々人の特性、歩んできた経緯や環境によって大きく変わってくるのです。
WHO(世界保健機関)の調査によると、約15億人以上の人々が“耳が聞こえない”という状況を経験しており、うち何らかのケアを必要とする方は約4億3,000万人います(註1)。また、国内では、厚生労働省の調査によると聴覚障害者の数は約34万人とされていますが(註2)、あくまで障害者手帳保持者を対象とした統計であるため、実際はもっと多くいると言われており、超高齢社会への移行も相まって増加する傾向にあります。
その一方、 “耳が聞こえない”、あるいは手話言語や視覚的な情報を必要とする方の視点からみると、既存の社会は“音声を発する”ことが前提(基準)となって構築されていることが分かります。発話、電話、テレビ、ラジオ、放送、音楽……枚挙にいとまがありませんが、ありとあらゆる音声を耳で瞬時に把握し、理解することが必須のこととして求められている社会的構造では、物理的に“聞く”ことが難しいために必然と様々な場面で情報格差が発生しているのです。“聴覚障害者”というよりは “情報障害者”といったところでしょうか。ますますの情報社会への突入にあたっては、喫緊の課題といえましょう。
ミュージアムでの“耳が聞こえない”方への対応
そんな“耳が聞こえない”方々に共通するミュージアムの対応としては、おもに「情報保障」を目的とした代替手段が用いられています。例えば、手話言語による通訳、書記言語による通訳や要約筆記、筆談などが代表的ですが、そうした視覚的な方法をベースとした情報の提供を行うことで、スムーズに情報を取得したり、コミュニケーションを図ることが可能となります。
海外、特にアメリカやイギリスなどのミュージアムではアクセシビリティの考えや取組みが発展しており、手話・字幕バージョンの音声ガイドやアプリケーション、手話・字幕表示の切り替えが可能な映像展示、ろう者による定期的なツアーなど、多様なアプローチが試みられています。
海外ほどの頻度はありませんが、近年では日本のミュージアムや文化施設においても、ろう・難聴の方を対象とした手話動画などのコンテンツ、手話通訳・要約筆記付きトークツアー、手話言語や筆談のワークショップなどのアクセス・プログラムが自主的に実施されていくようになりました。また、2016年から障害者差別解消法が施行となってからは、そうした法的基盤の整備も相まって合理的配慮の依頼も少しずつ増えていくようになりました。
現在、ミュージアムで実施されている合理的配慮の代表的な事例としては、下記が挙げられます。
- 手話通訳者の派遣(ろう者による通訳を含む)
- 要約筆記者・文字通訳者の派遣
- ヒアリングループ(磁気ループ)の提供
- 手話言語によるコミュニケーション
- 筆談ボードなどによるコミュニケーション
- 音声認識システム(UDトークなど)の使用
- 映像・音声ガイドのスクリプト提供
合理的配慮のケースと課題について
ここでひとつ、ミュージアムでの合理的配慮について、前々から私や周囲の聞こえない当事者が感じていた、映像展示や動画コンテンツに日本語字幕や日本手話がついていないために内容を理解することが難しい、という困りごと(経験談)について紹介したいと思います。
1. <困りごと・要望>
ミュージアムにおいて展示やメディア・コンテンツとして広がりを見せている映像や動画は音響やセリフが音声としてパッケージされたものが多く、日本語字幕、あるいは日本手話が用意されたものは滅多にありません。インバウンドに対応するため、外国人観光客の方向けに英語字幕のみの展示や動画が上映されていることもごくまれにありますが、英語では理解することが難しい方もいることを想定しているわけではありません。
そのため、とある館に、合理的配慮として「映像展示には日本語字幕を入れて欲しい」旨を要望しました。そこから、館側よりどのように対応できるか、という話し合い(対話)が始まりました。
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2. <対話>
最初の館側からの回答では、すでに制作・公開されているものを作り直すには多くの時間や労力がかかるとのことで、実現が難しいということが分かりました。その現状を把握した上で、私の方から代替手段として映像展示の内容を文字化した簡易な台本を提案したところ、美術館側から「それなら手配可能」ということで理解していただき、合意することができました。
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3. <双方が合意したこと>
結果として、耳が聞こえないために映像展示の内容がわからないという社会的障壁に美術館側が対応し、スクリプト(文字化した台本)を用意してもらいました。
この事例は、できないことをできないままにしておくのではなく、双方の抱える現実を認識したうえで実現可能な一つの解決策を示したという点でも、合理的配慮の一事例と言えるでしょう。
しかし、その一方で課題もあります。かくいう私もそうですが、台本が用意されたことで内容を把握することができても、映像作品が展示されている展示室が暗い場合は台本が読みづらいことや、映像展示を見ながらスクリプトを読むのは大変な集中力を要するため、気づけば読まなくなるということも聞かれます。また、日本語に苦手意識を持つろう者もいます。そのため、単純に「耳の聞こえない人のために台本を用意すれば万事解決」、というわけではないのです。
合理的配慮とともに進めたい「環境の整備」について
私の場合、そうした合理的配慮が合意に至らなかった場合は諦めるか、あるいは館側の負担を考えると逆に合理的配慮の依頼を遠慮してしまうことも実際にあります。その場合、友人や知人が一緒にいる時に限って可能な範囲での内容の解説をお願いすることもありましたが、音声の流れる作品や展示、特にインスタレーション、スクリーンやフィルムなどを用いた現代アートなどの作品では、音声の内容が抽象的であればあるほど解説するのが難しいということもしばしば聞かれました。
こうした状況を考えるとき、当初から日本語字幕や日本手話動画をつける方がベストなのです。このように、不特定多数の耳の聞こえない方に対応するためのインフラ整備は、いわゆる「環境の整備」として、同時に進めて行く必要があるでしょう。「合理的配慮」は個々人の要望・依頼に合わせて対応するものですが、同時に環境の整備を進めて行くことで、アクセシビリティの基盤が向上することにつながります。
なお、NCARでは、センターが制作・発信する動画には原則として日本語字幕(可能な範囲で英語字幕も)をデフォルトとして挿入するようにしています。これは、音声のみのコンテンツでは情報が行き届かない、アクセスしづらい方々がいることを念頭に置いた上で、少しでもより多くの情報をお届けできるよう情報インフラの整備にも力を入れているためです。
さいごに
先に紹介した合理的配慮のケースは、あくまで現実的な状況を踏まえた上で合意に至った例になりますので、必ずしも当事者ならでの困りごとが解決されたわけではありません。相手側を気遣って声をあげづらい、あるいは可視化されにくい困りごともあるのです。
また“耳が聞こえない”方をめぐるミュージアムの現状を考慮したとき、前提として来館される方々は音声(音声日本語)のみで情報を得られる人ばかりではない、ということを認識していく必要があります。もちろん“耳が聞こえない”人に限らず、外国にルーツのある方や学習障害、発達障害のある方など複雑な日本語に苦手意識を持たれる方、あるいはこどもやシニア世代の方など、多様な背景を持っている方の存在も例外ではありません。そのためには、単一的なアプローチに終始するのではなく、企画の段階から当事者と一緒になって考えてみたり、複数の視点から展示やコンテンツへのアクセスのしやすさを考えていくことを意識していくこともこれから求められていくでしょう。
註
1) World Health Organization, 2021, World Report on Hearing
2) 厚生労働省, 2018,「平成28年生活のしづらさなどに関する調査 (全国在宅障害児・者等実態調査)」
編集協力:米津いつか