講演
「知識創造社会の美術鑑賞教育のあり方」
上野行一
帝京科学大学こども学科教授
[略歴]
大阪教育大学大学院修了。 公立学校教諭、高知大学教育学部教授を経て、2010年より現職。
『私の中の自由な美術』(光村図書、2011年)等著書多数、NHKの通信教育委員会委員として、NHK高校講座「美術」を監修。
ごあいさつ
皆さん、こんにちは。
いまご紹介いただきました上野です。
「美術による学び研究会」の代表をしております。
きょうは研修の最後ということでストレスのない講演をしたいと考えていますが、いきなり画面にはストレスを感じることが書かれています。
「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」。衝撃的な記事が2011年の8月に出ました。キャシー・デイビットソンというデューク大学の先生、エコノミストが書いた記事です。
何が言いたいかと言うと、あと15年くらいでアメリカとか日本のような既に近代化を果たして、ポスト近代化に入っている社会の社会構造や産業構造が劇的に変わるだろうということです。こういうことを言われたのは今にはじまったことではなく、既に1960年代頃にダイヤル・ベルが『脱工業化社会の到来』という本を出しました。これは非常にインパクトがあって、その後、アルビン・トフラーが『第三の波』を書いたり、あるいはドラッカーが『脱工業化社会の経済学』を書いています。
ポスト近代社会というのは、工業社会ではなく情報社会であるとか、知識社会であると当時から指摘されていましたが、では具体的にどんな社会なのか?何が起こっているのか?そういうことは具体的に見えてこないわけです。ですから、それに見合う教育というものも見えてこない。それが1990年代頃からだんだん見えてくるようになりました。つまりインターネットが民間に行き渡ってきた。そして2007年~2008年頃からオンデマンドでいろんな方が接することができるようになってきました。iPhoneや iPad、フェイスブックの登場です。そういったもので少しずつ輪郭が見えてきたわけです。
これは3年前に文科省のある懇談会で出た資料ですが、そこにこういうことが書いてあります。「21世紀の情報社会では『こと(知識)創り』を重視する教育への転換が求められる」。
知識基盤社会というのは今の学習指導要領とか教育課程のベースにある考え方ですが、これからは新しく知識を創出し続けることに大きな意味を持つ社会になる。つまり『知識創造社会』になるということです。
知識基盤社会という言い方がいま、知識創造社会という言い方に少しずつ変わってきています。厚生労働省や経産省の資料を見ますと、やはり2010年頃からこういう言葉が出てきます。2013年の4月25日、中教審が答申をして6月14日に閣議決定された第二期教育振興基本計画があります。そこにはっきりと「知識創造社会」が謳われています。
そういう社会を「工業社会型の教育から知識創出型の教育へパラダイムシフトしている。そこで21世紀型学力の育成を目標とする学校教育の実現が緊急の課題である」という資料が出たのです。
この白抜きしてある部分(知識創造社会・教育のパラダイムシフト・21世紀型学力)が今日の私の話のキーワードになりますので、講演のお題は「知識創造社会の鑑賞活動」にいたしました。そこで「美術による学び」をどう考えるかということです。内容として「アメリカの現状」から学んでいきます。二つ目は「対話による鑑賞の歴史から学ぶ」ということ。最後に「学びを考える3つのポイント」ということでお話を進めていきます。
アメリカの現状から学ぶ
実は2013年の2月から3月にアメリカ東海岸、ニューヨークやワシントンDCの大手の美術館の教育普及の実地調査に行ってまいりました。いま映像に写っているのは、ブッケンハイム美術館です。セントラルパークを背中にして撮っています。
私は教育センターの中でレクチャーを受けたのですが、会議室の壁にこんなポスターが貼ってありました。見たらすぐに分かりますね。キース・ヘリングの絵に合わせて「Learning through art」と書いてあります。ちなみに私が主宰している「美術による学び研究会」のホームページのフロントには「Learning through Art」と書いてあります。なにか不思議な気がしました。
ブッケンハイムの「Learning through art」は一種のアーティストスクールで作家を学校に派遣するのですが、一学期まるごととか1年間とか日本とは規模が違います。これは事情があって学校予算で校長が美術教師を雇わないケースが多々あり、美術の先生が少ないという事情もあります。それからこれは、アート・インテグレーションとして位置づけられており、子どもの学びを美術でサポートするという考え方です。つまり地域のことを調べるとか、数学を学ぶときに美術を使ってやるんです。そういう考え方で運営されています。
私たちはシャロンさんという方に導かれて、ギャラリートークのデモを受けました。これはピサロの作品です。これを見ながら絵を囲んで座りました。そして、まずじっくり見るように促されました。その後、「何に気がつきましたか?」と問われました。この辺は「対話による鑑賞」の基本的な方法です。私たちは思い思いのことを語りました。子どもにこういう絵を見せて語らせますと、全体のことはしゃべりません。気になった部分から話します。私たちも似たようなもので、いちばん最初に出た意見は「この家の煙突から煙りが出ている」。そういう意見が出ました。
いろいろと意見が出てきますが、「一つの良い答はない」と締めくくっていただきます。そのとき実は「平和な田舎の村、穏やかな午後の風景にみえます」という意見が出て、シャロンさんはこんな風に言いました。「ピサロはこの村に住んでいたのです。この絵は1867年に描かれました。ちょうど産業革命が進んだ頃で、その波はポントワーズにも押し寄せ、村の人々も都会に働きにでるようになりました。近代化していく都会の風景、それとは違う見慣れた田舎の風景、当時、これだけ大きなキャンパスに田園風景を描いた絵はなかったのです。ピサロは田舎の風景の素晴らしさに魅了された画家でした」という見事な解説がありました。
対話による鑑賞の特徴は、いきなりこういうことは言わないのです。こういう意見が出てきて、見ている人の関心がそちらに向いたときに、こういう解説を出してくる。観衆の関心に合わせた解説をしていきます。
よく対話による鑑賞では解説はしなくていいと思われている方もいますが、それは相手次第です。小学生に言っても仕方ありません。わたしたちはシニアの研究者でしたから、こういう解説をしてくれたわけです。ですから、学習課題とか発達特性に応じてこういうことがあるんです。
よくVTSでも混同される方がいますが、VTSの場合、基本的にこういうことはしません。それが対話による鑑賞の大きな違いです。
小学校2~3年生向けのプログラムならどうするのかと思ったら、これもやっていただきました。こんな細長い紙を配られるんです。問いが発せられ、それに答えていきます。第一問は、「見たものは何ですか?」それで簡潔に書くんです。書いた答えを折って隠して隣に回します。そうすると折った紙が来ます。そこで第二問です。こんどは「聞こえたものはなんですか?」それでまた折って隣に渡す。その繰り返しをしていきます。
この時はこういう5つの問いでした。視覚と聴覚、嗅覚、触覚と味覚。五感を通しての鑑賞をするわけです。最後にばらばらに書いた5つの答えが自分の手元に残ります。これを順番を考えて文章にするわけです。たとえば、「えんとつのけむむり」「こんにちは」「若草の香り」「そよ風」「びみょうに甘い」。これでどんな文章ができるのかと思いますけど、何をしているかというと、実は国語の授業のサポートです。
これはブッケンハイムのホームページのフロントですが、ここを拡大してみます。いちばん上にイングリッシュ、ランゲージアーツがあり、国語、数学、理解、社会があり、アートがある。要するにいろんな科目の授業に対応できることを謳っているわけです。
これはブッケンハイムに限ったことではありません。たとえばMoMAに入りますと、ロダンのバルザック像があります。私が行ったとき「今回のテーマはキャラクターです」と言われました。最初、このバルザック像を見ながら対話による鑑賞をするわけです。気がついたことを言ってくださいと。それで参加者が「老人が・・・」というと「どうして老人だとわかりましたか?」と返される。それで「顔に皺が刻まれているから」とか、対話による鑑賞の基本形でギャラリートークが進んでいきます。
そして、トークの最後に「では、この人、どんな性格ですか?」と問われるわけです。ちょっと像がそっくり返っているから「偉そうみたい」とか、上のほうを見ているから「志の高い人かな」とか、そういう風に考えたことを言うわけです。
こちらのウォホールの「マリリンモンロー」でも同じように対話による鑑賞が行われ、最後にこの人、どんな人ですか?と問われるわけです。「笑っているけど寂しそうに見える」とかみんなで鑑賞します。最後にバレット・ニューマンの横5メートルくらいある大きな作品を見て、「これが人だったら、どんな性格だと思いますか?」と問われました。これは参りましたね。でもみんなそれぞれ考えて、「赤いから情熱的だ」とかいろいろ答えました。
「横5メートルの赤の平面が目の前にあるので、人を拒絶する人なのか」などと答えていくのですが、そういうことを問うていくと、実は人の性格というのは固定的なものではなく、自分が「この人はこういう性格だ」と、その人の性格を作り出していることが分かります。
私たちが日常、人と接するときに行っている無意識な行為が、作品の鑑賞を通して気づかされます。日常生活の中におけるそういった振る舞いを見直すことができたなら、それが美術作品を鑑賞することの一つの大きな意味なのかなと感じました。
それでジェシカさんが「なぜ、この作品を最後にもってきたか分かりますか?」と問うわけです。彼女は作品の相互作用に重きを置いていると。最初に立体のバルザック像を見せられ、次に平面のリフォームした人間の顔だけを見せられ、最後に抽象的なものを見せられました。そういう作品を選んで、ちゃんと順番を考えているわけです。前の作品の鑑賞は、次の作品の鑑賞に影響を及ぼしているということです。
これはMoMAのエデュケーションセンターですが、そこでジェシカさんがレクチャーしてくださいました。「私たちが狙っているのは、アーティストについて学ぶ以前に、人々が作品を私たちのまわりの世界とどのように関連づけて扱うかということです」。これはかなり重要かつ革新的なことのような気がしました。美術作品を鑑賞することに、こういう思いを持ってMoMAの方は取り組んでいます。ですから、美術館は美術愛好家のためにだけ開かれているのではなく、すべての市民に対してさまざまな目的のために開かれているという自覚があるような印象を受けました。
これはMoMAのホームページのフロントです。ここに「じっくりと見て、対話をして、批判的に考える。そういうことを学びましょう」と書いてあります。
アメリカのブッケンハイム、MoMA、メトロポリタンなどいろんな美術館を見ましたが、やはり「対話による鑑賞」が基本です。多様なニーズに開かれたプログラムがあり、MoMAのホームページにあったように、「見て発見し、批判的に思考する」そういうことを謳っています。
アメリカの現状を見て、決して美術の理解が至上ではなく、21正解型学力や市民力の育成、厳密な作品の選定と配列が必要だと感じました。
対話による鑑賞の歴史から学ぶ
風神雷神屏風の鑑賞です。
基本の形は、1開かれた質問をする、2根拠を問う、3受容的態度で意見を受け止める、4意見を交流してまとめる。単純な授業構造ですが、実は4がいちばん難しいですね。経験を積まないとうまくいきません。
最初にねらいを明確に伝えます。ビデオがないと分かりにくいですが、方法を明確に伝えます。正解はないので気づいたことをどんどん発表してくださいと伝えます。たとえば「服装が似ていると思いました」という意見が生徒から最初に出ました。そうすると先生は「服装が似ている」と繰り返します。その後「どんなところが似ているのかな?」と根拠を問います。
そうすると生徒は「黒い紐みたいなものがある」。先生は「あぁ、たしかに」と共感をします。こういう風に最初は「部分」に関する意見が出てくるはずです。その際、丁寧に対応することが大切です。「服装が似ている、はい他には?」「はい他に?」と断片的に意見が流れていく授業もありますが、そうすると授業が盛り上がってこないんです。きちんと先生が意見を繰り返したり、根拠を問うたり、共感するという地道なことを積み重ねていくことによって、徐々に授業が盛り上がってくるんです。
次に「雷神はカミナリだから上から下に向かっていて、風神は風だから横に走っている」という「動き」に着目した意見が出てきました。そうすると先生はそれに関連してどうですか?というふうに授業の「水路づけ」をします。それで他の生徒から付け足しが出れば「なるほど、いい付け足しだね」と誉めたりします。また、今、大きなことを話題にしていますから、先生が「身体化」してみせることも大事です。
こうやって授業の流れを作っていくわけです。これをどんどんやっていくと徐々に熱いトークになっていきます。この授業の場合、15分くらい経ったときに、一人の女子生徒が「楽しんでいるみたい」という意見を言ったんです。この意見は今までとは違う異質な意見です。いままでは服装とか動きとか目に見えることを言っていましたが、「楽しんでいるみたい」という作品全体に印象に関連する意見が出てきました。
こういう「流れ」を変えるような意見がポンと出てきます。ここに注意をしてください。こういう変化はいつ訪れるか分かりません。必ず変化があるので、それに敏感にならないといけないですね。
先生はそちらに「水路づけ」をしていき、風神と雷神の関係について話を進めていきます。
そうすると最後のほうに「風神と雷神が競い合っているとしたら、下の天候はすごく悪くなっていると思う」という核心に迫る意見が出てきました。
ここで先生は「風神と雷神は、昔の人々が強い雨風や雷などの自然現象に対する畏怖の念から生まれた想像上の神様です」という解説をするわけです。この作品に関わる説明はここで言うべきです。そうすると生徒たちは自分の目で見て、頭で考えて鑑賞してきたことと、作品の背後にあることがうまく結びつくわけです。この解説をいきなり言っても、それは単に知識を身につけるだけのことで、生徒自身は頭を働かせていないわけです。
このような対話の鑑賞は、いろいろな誤解や混同があります。たとえば「対話による鑑賞はアメリア・アナレスによって日本にもたらされた」と、ある美術館のパンフレットに書いてあります。あるいは「対話型鑑賞は、アビゲイル・ハウゼンのVTSが元になっている」と書かれているホームページもあります。あるいは「対話型鑑賞はVTSが元になっている」という論文もあります。これ全部、間違いです。
もちろん、それはこういう理解をすれば可能です。1995年8月に水戸芸術館で「ミュージアム・エデュケーションの理念と実際」でフィリップ・ヤノワインの講演がありました。当時、美術館でのギャラリートークは解説が中心でしたから、これは大変にショックなことだったと思います。その後、「なぜ、これがアートなの」という展覧会があり、「まなざしの共有」という本が出ました。たしかにこういう流れの中で見ていくと、この時期に対話の鑑賞がはじまったように感じます。でも、これは美術館教育からの視点であって、学校教育の視点からみるとまったく違ってきます。「対話による鑑賞」は今にはじまったことではありません。それを「鑑賞の視点」、「教育の視点」そして「美術鑑賞教育の視点」から述べていきたいと思います。
まず鑑賞ということについてです。これは美術の世界に先駆けて文学の世界で起こってきています。20世紀の頭に「ニュー・クリティシズム」がアメリカを中心に出てきました。読書するって、どういうことなのだろう。文学鑑賞って何?読者が自由に読んではいけないのか?読者が自由に読んで楽しかった、面白かった、この主人公はこんな考えを持っているんだという思うことと、作者があらかじめ意図して書いたこととズレてはいけないのか?という議論が起こってくるわけです。こういう議論の中で読者のほうに主体を置いた動きが出てきました。
その後、インガルデン、H.R.ヤウス、W.イーザーの本が出てきて、こういう考え方が一般的になってきます。日本でも1936年に「鑑賞は学でなく芸術である」ということをいう人が出てきます。石津純道さん。彼は岡崎義恵さんの「鑑賞はそれ自体芸術活動であって、学的作業ではない」という言葉を引用しています。
「学的作業ではない」が何を指すかは難しいですが、美術鑑賞で置き換えると、たとえば、韓国の新しい学習指導要領は、高校2~3年生の選択美術の構成が3つに分かれています。最初は「観察と反応」で「直感的感覚」として、感じや考えを話す、討論すると書いています。これは対話による鑑賞ですね。その次の段階で「分析と解釈」があり、材料と技法などを分析するとか、様式を調べるとあります。そして第3段階として「判断と活用」で美術批評が出てきて、2段階目までに集めた資料を元にして討論していく、批評文を作成する。たぶん、こういったことが学的作業に近いのではないかと思います。
一方、美術の世界ではどうなっているでしょうか。バルトやエーコなどの影響を受けて、宮川淳さんが1980年にこんな事を書いています。「芸術は見ることのなかに成立する」。
実はいろんな人が似たようなことを言っています。テクスト論はバルトを例にあげると、作品を作品として捉えたら、それは生みの親である父(作家)が創りだしたもので、意味は一つしかない。だが、テクストと捉えると、父の記名なしに読まれるものであり、父とは関係なしに読み手によって意味が生産されるものであると言っています。そういう考え方です。
あるいはエーコの場合、もう少し過激で「鑑賞者の解釈が作者の意図の範疇に属しているかどうかは重要なことではない。問われるべきは鑑賞者の生成した自己の内なる感情や思考の独自の質である」。また、ガーダマーはこんなことを言っています。「美術作品、芸術作品を見ること、読むことは、歴史上の記録文書を見ること、読むこととは違う。その作品が現在的で同時的なものとして、その人に語られるかのようにして語る」。それが芸術作品を見るということなんだと言っています。
さきほどの宮川さんの文章は正しくはこう書かれています。「芸術とは作品の中に、あるいはその背後に自己完結的に存在するのではなく、その手前に、この「見る」ことの厚みのなかに共同の幻想として成立する」。作家のほうもそういうことを自覚しています。ピカソなども「作品というのは制作のなかで変わるが、完成後、作品を見る人の状況によってまた変わる。1枚の作品は生き物のように自分の生を生きる」と言っています。このような水路に沿って対話による鑑賞の場が日本の美術館で準備されることになります。
教育の視点
教育の視点から見ますと、対話による鑑賞は「社会的構成主義」あるいは「構築主義」という考え方に沿っています。これは教育学のおさらいになりますが、ピアジェの個人的構成主義の学習理論を確立した後、ヴィゴツキーが発展させます。学習というものを社会的な相互作用として捉えます。だから知識は社会的に探求され構成されるものという考え方です。この考え方は現在の学習指導要領にも影響を及ぼしている考え方です。ですから、構成主義的な学習理論があって、集団で探求する学習が行われ、そこで対話による知の相互作用が生まれて、集団で知識を構成していく。それで作品の意味が作られる。これが対話による鑑賞の構造ということになります。
新しい学習指導要領の構造
1989年に新しい学習指導要領が出て、新しい学力観というものを出してきました。これは、自ら学ぶ意欲や判断力、表現力などを学力の基本とする考え方です。これは今の「生きる力」に結びついていることはご存じかと思います。この元になったのが佐伯胖の「本当の学力というのは、検査して測られるべき学んだことの量ではなく、未知なる状況に置かれたとき学んでいく力」という考え方だと思います。
平成18年に改正教育基本法を受けた形で、学習指導要領が改善されました。図画工作科、美術科、芸術科、小中高それぞれの美術、その課題を踏まえ、思考、判断、生活、文化、将来、そのキーワードを重視しなさいと。これが基本方針です。特に4番、「感じとったことをもとに、自分の思いや考えを大切にしながら、自分なりの意味を発見するなどの鑑賞の学習の充実をはたす」。これは小中高、すべてにつながる課題です。この答申を受けて、現在の新しい学習指導要領ができたわけです。
中学校の場合、少し言葉が難しくなりますが、「作品などに関する思いや考えを説明しあう」「自分の価値意識を持って、批評しあう」とあります。どちらも言わんとしていることは、自分の目で見て考えたことを意見交流して考えていきましょうということです。ですから対話による鑑賞のことを言っているわけです。対話による鑑賞の構造や培われる力は、現代の学習理論・学習指導要領に密接に関わっているということです。
美術鑑賞教育の視点
美術鑑賞教育から見てみましょう。『経験としての芸術』というJ.デューイが書いた本が1952年に翻訳されます。おそらく、このあたりが日本の美術教育における読者論、テクスト論の素地が作られたいちばん最初の頃だと思います。同時期、昭和25年に岩波書店から『少年美術館』という画集が出ています。この画集の「あとがき」にこんなことが書いてあります。
「解説を読む前に、作品そのものを繰り返し、繰り返しよく見てください。皆さんが博物館で絵そのものを少しも見ないで一生懸命、下に付いている解説を写しているのをよく見ますが、あれでは美術を味わうことはできません。こうした見方では何百回見ても同じことです。また有名な作者の名前が書いてあればえらいと思い込み、どんなものでも立派な絵だと思うことが私たちにとっていちばんつまらないことです」。
この画集の3年前、昭和22年に日本で最初の学習指導要領が出ています。これはもともと翻訳なので文科省は学習指導要領とは認めてはいません。それを読むと3番、「感想をのべる」とか、4番「その感想について討論する」とか、戦後間もないころに出ているんです。ですから忠実に授業をしていたならば、当然この頃から「対話による鑑賞」はあったわけです。3年生は「作品の美しさを話し合う」、6年生は「どこまでも自分の目で見て、自分の心で判断する」と書いてあります。
1970年代から行われていた鑑賞教育
この当時、こういう授業が行われていれば本当に良かったなと思いますが、どうでしょうか。ちょっと探してみると、1973年11月1日、静岡大付属におられた野島光洋先生が浜松西中学校(3年生)で行った自分の授業記録を残しています。録音テープを取って書き起こしをしています。
こんな授業です。先生が最初に「感じてくれたことをそのまま言ってくれて結構です」。そうすると生徒が「女の人の顔が気に食わん」と書いてあります。爆笑とあり、先生が「どういう点で?」というと生徒が「目つきが悪いで」。また爆笑と書いてあります。先生が「みんな笑いましたが、実にいい見どころですよ」。そうすると発言した生徒が喜んで自分で拍手する。授業の様子が見えますね。別の生徒が「一見おだやかに見えるけど、心の奥では悲しい感じ。戦争の後の寂しい静けさのようだ」。なかなかいいこと言いますよね。それで、先生「はい、そういう気がする」。別の子が「色っぽい」。また爆笑。ぶちこわしてします先生が「どこから、そういう感じがしますか」と先生がまた聞きます。そうするとその生徒が「目つきと顔から下の感じ」。別の生徒がそれを受けて「どこへ逃げても、目が追ってくる感じ」と言います。先生「なるほど面白い見方だなあ」と受けて授業は続いていきます。
さきほど紹介した風神、雷神の授業、これは2012年の2月に北海道で行った授業ですが、最初に先生は「正解はないから、気づいたことをどんどん発表してください」と言います。この2つの授業を比べてみると驚くほど類似しています。野島先生は「感じてくれたことをそのまま言ってくれて結構です」。山崎先生は「正解はないから、気づいたことをどんどん発表してください」。その後、野島先生は「どういう点で?」、矢崎先生も「どんなところが似ているかな?どうしてそう見えるんだろう」と二人とも根拠を問うています。さらに野島先生は「実にいいみどころです」とか「なるほど、面白い見方だ」と受容して誉めています。山崎先生も「ああ、確かに」とか「なるほど」と受容して誉めています。1973年の授業と2012年の授業、40年の時空を隔てて同じような授業があるんです。
さきほど対話による鑑賞の構造をお話しましたけど、ぴたっと合っています。つまり、対話による鑑賞は1970年代から確実にあったわけです。それ以前は実証資料がないのでなんともいえませんが、おそらくあったのだろうと予測できます。ですから、対話による鑑賞の歴史は、ブームでもある日突然起こったわけでもありません。1995年辺りだけを見るのではなく、大きな視野で俯瞰して見ることが大事です。
学びを考える三つのポイント
学びを考えるポイントは、一つは教育の方向性を知るということ、二つ目は時代に求められる能力を知ること、そして21世紀型学力を育成する授業を考える、この三つがあります。これを念頭に置いてこれからの美術教育、美術鑑賞を考えていくことが大事です。
未来はどういう社会になるか分かりませんが、1972年にヨルゲン・ランダースが『成長の限界』という本を出しました。そこで既に「工業社会の終焉」や「経済成長の頓挫」を予測しています。ここで求められていた能力は、後で説明する「メリトクラシー」という能力です。その後、2008年のリーマンショックを受けて、世界的な大混乱が起こり予測不能な状態に陥り、インターネットが普及して少しずつ未来が見えるようになってきました。
1972年から40年経って2012年にランダースは『2052』という本を出しました。今年の1月にこの本の翻訳が出ています。そこで2052年の社会を「こんな社会だ」と彼なりに予測して書いています。昔、求められていた「メリトクラシー」とは、近代社会で求められた能力です。たとえば基礎学力~3R(読み、書き、計算)、それから知識の量や知的操作の速度、これは計算が何秒でできるとかそういう世界です。これが近代社会が求めた能力です。
一方、今後の社会に求められるのは「ハイパー・メリトクラシー」~多様性、意欲、創造性、個性、ネットワーク形成力、交渉力です。こういう話を企業の方にすると「まさにそうです。企業研修でやっています」と皆、頷かれます。
これが第二期教育振興基本計画を図示したものです。これはやはり近代社会型の学びのシステムであって、これからポスト近代社会型に転換していかねばなりません。そういうことが書かれています。文科省のホームページに掲載されているので見てください。ここで出てくるキーワードは「自立」「協働」「創造」と3つあります。この3つがこれからの社会のシステムを考えていく上でのキーワードになります。
文科省はOECDの調査に大ショックを受けて、どうも日本が目指している学力の方向性はOECD諸国と違うと気づき、3つのキー・コンピテンシーを慌てて作るわけです。これも実は小・中・高における学力構造であって、大学の場合はまた違います。
これからの社会に求められる能力はなんなのか?は世界各国が模索しています。「21世紀の美術の学力」って何だろうと考えたとき、マイケル・ゴーヴ(英国教育相)は去年、こう発言しています。「あらゆるものがかつては想像できないほど進歩している。でも、まったく変わってないものがある。教育だ。(中略)、このモデルは近い将来、滅びるだろう」と言っています。もちろんこれはIT教育を念頭に置いた発言ですが、教育のモデルも今後は大きく変わるということです。
これまでのスキル(学力)、近代社会のメリトクラシーを育てるための学力をベースにすると、個人が知識を正確に把握すること(習得)、与えられた課題を効率よく解くこと(活用)、そうやってゴールを決めることができたので、そこに到達するまでの教育をデザインすることができたわけです。ところが、社会が脱工業化社会になることが明確になっている状況で、先ほどのようなモデルの授業は成立しません。
そういったなかで、2005年にジョン・ホーキンスが「クリエイティブ・エコノミー」という概念を出します。これは「創造」や「文化」と関連する産業のことです。そういった産業形態がこれからの社会の中核になることを予測しています。すでにアメリカではクリエイティブ産業がGDPの中で70%にのぼっています。「資本の時代は終わり、創意の時代が幕を開けた」と言っています。実は国連がクリエイティブ・エコノミーのレポートを毎年、出しています。これは2011年のレポートですが、「創造性を核とする産業は、包括的な経済成長の源である」とレポートしています。つまり、世界的にこういうことは認知されているわけです。
アメリカは21世紀型学力をこんな風に捉えています。
- 問題解決能力
- 創造性
- コミュニケーション能力
- チームワーク力
- 自立的に学習する能力
- メディアリテラシー
- グローバルな認識
- 社会市民としての意識
- 批判的思考力
私的にはこれがいちばんわかりやすいですね。21世紀型学力は、先ほど述べたように「自立」「協働」「創造」がベースになってきます。ですから教わるのではなく、生徒が自分で答えを出す。意見を交流して、解法を創出、共有する過程をデザインすることが先生の仕事になってきます。
対話による鑑賞というのは、こういった考え方にマッチする方法だと思います。たとえば数学を例に取ると、学びながらなぜ、円周率が3.14なのかを考えていく。それが21世紀型学力の形成に役立ちます。対話による鑑賞に関していえば、全部に当てはまります。ですから、どこに重みづけをして授業をするのか。それは学習課題と発達特性によって先生方が判断すればいいことです。
いま10歳の子どもは、2052年に50歳になります。つまり、そのときの社会のトップランナーであり、中核を占めます。2052年はさきほどのランダースが予言した社会ですが、そこでいかに社会を引っ張っていけるか。その時にどんな能力、資質が必要なのかというと、この21世紀型学力が必要になってきます。いま10歳の子どもにそういった力を付けていくことが大事なのです。
美術も学びも例外ではなく、鑑賞教育では、自立して考え、対話し、協働して知を創りだす授業が求められるということです。対話による鑑賞はかなりそのことに適応している方法だと思いますし、もちろんそれ以外にもいろんな方法があります。先生方もぜひ、こういうことを念頭に置いてこれからの授業づくりをがんばっていただけたらうれしいです。
どうもありがとうございました。