ギャラリートーク分析
2.中学生
- 三澤
- よろしくお願いいたします。
いま本間先生の分析を聞いていて、中学の先生は「小学校は面白いなあ」と思われたのではないでしょうか。 中学になるとがらっと変わります。私も中学校の教師として十数年の経験がありますが、中学2年くらいになると、なかなか言葉が出てこないです。 中学1年生くらいなら、先ほどの小学生みたいに騒ぎながら比較的作品についての会話が出てきますが、2年生以降になると言葉が出なくなります。 逆にいうと、その時期が重要になってくるのではないかと…。 中学生は自分の考えをいったん頭の中でまとめながら言葉にしていく。 その言葉、友だちの発言を聞いて自分の考えと比較しながら考え方を深めていく。そういうような授業だと思います。
アリスティード・マイヨール 《夜》
アリスティード・マイヨール 《夜》
- 三澤
- これから見ていただく映像は、小学校と中学校の発達の状況を踏まえ、特徴を捉えながら見ていただくと面白いと思います。 最初の画面ですが、もう小学生との違いが分かりますね。どこに違いがありますか? 小学生は彫刻の人物の真似をしたり、全身を使って体で見ていましたよね。対して中学生は作品と距離を置いて客観的に捉えようとしています。 ここが決定的な違いです。ですが作品を味わうという点では、中学生でも身体を使って見せることは結構、有効です。 かつて小学校時代に鑑賞した手法を使って中学生も同じように作品を味わう。そういうことも考えられます。
- 「大きなものから削ってできた」。中学生になると、このように制作技法とか、どのように作ったのかという作品そのものの作られ方にも興味があります。 この場合は、ブロンズですから実際には粘土で作って鋳物にすると奥村先生が説明していますが、生徒はそういうプロセスを知らないわけで、「大きなものから彫ったのではないか?」。 なぜか、それは「つなぎ目がないから」と言っています。この生徒は生徒なりの根拠を持って話しているわけです。 つなぎ目がないからこうしたのではないかと推理をして話しをしています。このように自分なりに物事を考えながら見ていくのが中学生の特徴です。 この場面、その後、奥村先生が「実はね…」という形で技法を教えています。このように生徒に必要な情報を与えたり、訂正も必要です。 ただし、先生が最初から「ブロンズで作ったんだよ」と言ってしまうと、先ほどの生徒のような発言がなくなってしまうので、あくまでも必要なときに必要な情報を与えていかなければいけません。 この場面、このまま先生が流してしまうと、石を彫ったという間違いが制作のプロセスとしてみんなに共有されてしまうので、奥村先生は訂正するわけです。 奥村先生、上手ですね。生徒のいうことを否定せずに訂正していきます。
- 三澤
- ここもある意味、生徒の勘違いです。生徒の勘違いは、教師にとってとてもおいしい場面です。
彼女は勘違いしていますが、勘違いなりにも根拠を持って話しています。
この作品は背中のほうは男らしい。背中から見るとまさに男です。このときに他の生徒にも彼女がそう感じた同じ視点からか作品を見つめさせると彼女の理解が共感できます。ただし、これは女性です。
そこで奥村先生は、ちょっとボケてみせて、最近は男か女と分からない人も…と間違った発言をした生徒をリラックスさせようとしましたが、 そこに今映っている別の女の子が「丸みがあって」と言っています。 これは、まさに共通事項の部分です。その「丸み」が女性を表しているのです。
今のところ、もう少し見てみましょう。彫刻の場合、平面ではないので一箇所で見ていると、なかなか情報が共有されません。 彫刻は必ずあらゆる角度から見て、この場合、一人の発言がどこの位置から見てそう思ったのかということをみんなで共有していく。 それによって、その生徒の感じ方が理解できるというのは彫刻の特徴です。 中学生の場合、身体も積極的に動かさなくなるので意図的に作品の周りを巡らすなどして「ここからは、そう見えるんだよね」という形でフォローしていくと、彫刻の鑑賞については効果的かなと思います。
クロード・モネ《睡蓮》
クロード・モネ《睡蓮》
- 三澤
- いま、奥村先生は絵を見る距離を変えました。絵との距離を変えることで全体を捉えたり、近くで部分を捉えたり、距離を変えるだけで見え方が変わってくる。
その動きが子どもたちの作品の発見を促していくと思います。
- この子(右から4番目)に注目してください。もう一回見てみましょう。
すごく発言したがっていますね。 他の人の意見を聞きながら自分の考え方を「いいんだろうか」と確認しながら、奥村先生の話を聞いています。そういう姿が確認できます。
「奥行き」。中学生になると言葉が抽象的になります。抽象的な言葉を奥村先生は「こういう感じ」とゼスチャーを使って子どもたちに確認しています。 ここもとくに中学生らしい場面です。さきほど小学生は「蛙がいる」とか自分の生活体験からイメージを膨らませていったのですが、中学生は作者の視線をすごく気にしています。 睡蓮の池を上から見てる、そういう視線、造形的な特徴を捉えて作品を鑑賞しています。
- 三澤
- 奥村先生が「葉っぱと水だけでよく(遠近感が)出るんだね」。これは実はすごい言葉です。
どこかに奥行き感を出している要素があるんだよと言っているわけです。
子どもたちはこの発言で、なぜ奥行き感が出ているのかという造形的な探求が生まれてきます。
ここの部分、つまり手前の蓮は丸くなっているけど、奥の蓮は平べったくなっている。
同じ蓮でも距離によって描かれ方、形の違いを彼らはしっかり受け止めて、奥行き感が出ていると分析しています。 この辺りが中学生の造形的な特徴を捉える力です。 共通事項に該当する部分ですが、そこをしっかり押さえた鑑賞になっているわけです。
いまの奥村先生の発言もそうです。生徒の言葉を繰り返し重要なことを確認しています。 「水と葉しか描いてないのに奥行きを感じられるのは、こういう特徴があるかもしれない」。 それを奥村先生は「私はずっと疑問だったけど…」という話にして生徒たちに確認させています。
生徒が「水に映る森みたいなのがちょっと乱れていて風が少し吹いている」といっています。 見られている形の特徴からイメージを膨らませて、風が少し吹いていると自分の体験をからめて鑑賞しています。 ようやく彼が発言しました。実は奥村先生は彼が発言したがっていることに以前から気づいているんですね。 何か発言するぞと思って「何?」と聞いています。 そうすると、彼は「水に映る森みたいなのがちょっと乱れていて風が少し吹いている」といっています。 なかなか質問するタイミングが素晴らしいです。
「風の動き」。
これも重要なキーワードです。先ほどの小学生と比べてどうでしょうか。中学生は形や色、モノからどのような状況かを判断しています。
またそれを引き出すようなファシリテーターの言葉があって、鑑賞が深まっていく。作者の意図や作者が描きたかったことまで深い鑑賞ができるようになります。
ヤーコプ・ヨルダーンズ《ソドムを去るロトとその家族》
ヤーコプ・ヨルダーンズ《ソドムを去るロトとその家族》
- 三澤
- 「左のほうにあるのが海だと考えて、その向こうにある明るいのが平和だと考えて…」。 一つの状況を設定して、そこで物語を作っています。ここら辺が小学生と違うところです。 小学生と似ているのは「物語」を作って作品を見ていくという部分です。
- 中学生の場合、友だちの一つの発言に対し、自分の解釈を加えながら、意味を確かめていくような感じ。 そうやってどんどん深めていきます。
そのあたりが面白いですね。いろんな発見を意味づけていく。
友だちの発言に対して自分が発見したことを、友だちの発言にかぶせて意味づけていくという特徴があります。
- いまここは階下にロダンの彫刻が置いてある部屋です。それを上からのぞきこんでいます。
これはロダンの作品の配置、作品の大きさとか、どのように配置してあるのか。それを生徒は捉えて発言しており、展示空間全体を、絵を見るように鑑賞しています。 このような「空間が絵みたい」という発言ができるのは、ロダンや睡蓮など3点の作品を見てきた成果としてこのような発言が出てきたのかなと思います。
奥村先生が「ここにこれを並べた人はそんなことを考えていたんだ」と発言しました。
これは、「キュレーション」という姿勢を子どもたちに示しているといえます。さりげない言葉ですが、いろんな学びがこの先生の発言にあります。
- 三澤
- すごいですね、鑑賞を続けてきた結果、このようなロダンの作品が置いてある空間も一つの作品として捉えられるようになったわけです。すごく面白いなと感じたところです。
- この場面、いままでマイヨールやモネ、宗教画の3点の作品を見て、生徒が主体的に作品を読み取る態度が身についてきています。 いま奥村先生が絵の右側に描いてあることを説明していますが、それを聞き流して、この生徒はもう自分が発見したことを指さしています。
自分たちがファシリテーターをしながら絵を主体的に見ています。これだけの変化が短時間で起こったわけです。
このような鑑賞をしながら、自分たちの鑑賞する能力を高めています。
こんな風に鑑賞活動をしながら、時間を追うごとにどんどん鑑賞する能力が高まっていく。
本当に面白いと思いました。
以上です。
ありがとうございました。