講演

「育成する資質・能力を明確にした鑑賞教育」

上野行一
帝京科学大学こども学科 教授



[略歴]
大阪教育大学大学院修了。 公立学校教諭、高知大学教育学部教授を経て、2010年より現職。 『私の中の自由な美術』(光村図書、2011年)等著書多数、NHKの通信教育委員会委員として、NHK高校講座「美術」を監修。



ごあいさつ

皆さん、こんにちは。今ご紹介いただいた上野です。皆さんの研修の一番の最後で、疲れがピークに達しているかと思いますので気軽に聞いていただければと思います。

時間がないので早速、始めたいと思います。画面をご覧ください。
「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」。 ちょっとショッキングですが、これはデューク大学の先生であるキャシー・デイビットソンというエコノミストが、ちょうど3年前、ニューヨークタイムズに書いた記事です。

とんでもないことをいうエコノミストなのかなと思われるかもしれませんが、実は日本のエコノミストにも似たようなことを言う人がいます。 ある人は「いまある企業の半分は、20年後にないだろう」。こういう過激なことをいうエコノミストがいます。

なにをいっているかというと、これから20年くらいの間に世界の産業構造、経済構造が大きな変化を遂げるということです。 ここ数年を見ても、あるいは2014年から20年前の1994年を振り返ると、携帯電話が個人所有で広がりはじめた頃です。 ちょうど私が高知大学に赴任した頃ですが、携帯とPHSと2台持っていました。なぜかというと電波エリアがそれぞれ違うんです。 普通の携帯でないと電波が届かないエリアと、PHSでないと電波が届かない場所が存在していました。 それは高知県だけではなく、全国どこでもそうです。それどころかポケベルもありました。

先週、ある場所で教員研修をしたのですが、新人の22~24歳の先生方はポケベルを知りませんでした。 iphoneやiPadが普及しはじめたのは、ほんの6~7年くらい前です。 インターネットがオンデマンドで一般の人が使えるようになったのは、それくらいの時期です。

文科省はそういうことが分かっているわけで、これは今から4年前の小さな作業部会の資料です。 こう書かれています。「21世紀の情報社会では、「こと(知識)創り」を重視する教育への転換が求められる。 工業社会型(「ものづくり」重視型)教育から知識創出型(「こと創り」重視型)教育へパラダイムシフトし、21世紀型学力の育成を目標とする学校教育の実現が緊急の課題である」。 文部大臣が記者会見するのは全て決まった後で、こういう小さな部会の報告書の中にこういうことが書かれているわけです。

2016年の新学習指導要領に向けて

先月7月22日、下村文科大臣の記者会見で記者の質問に答えるかたちで、学習指導要領の諮問はどうなりましたか?という話が出ました。 そのとき「1~2ヶ月後になる」と言明されました。「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画スケジュール」を見ると、そこにさりげなく、学習指導要領の改訂は2016年になると書いてあります。 すでに既定事実になっています。また「日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実について」を見ますと、国語が小学校で84時間増えるとか、中学校で35時間増えるとか、 これは決まったわけではありませんが、そういう方向でいま話が進んでいるということです。 私たちに関係がある「美術文化の充実」も入っています。小学校で我が国の文化遺産の学習をするとか、中学校で歴史の学習時間が25時間増えるとか、どうも美術ではなく社会科で扱うようです。 それを何とか美術のほうに持っていきたいところです。

「従来の学習指導要領は、児童生徒にどのような資質・能力を身に付けさせるかという視点よりも、各教科等においてどのような内容を教えるかを中心とした構造。 そのために、学習を通じて「何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」が重視されがちになり、 また、各教科等を横断する汎用的な能力の育成を意識した取組も不十分と指摘されている」。 今年の3月31日に出ました。これは公の資料ですからホームページで見ることができます。

その後、こう述べています。「世界的潮流として、OECDの「キー・コンピテンシー」をはじめ、育成すべき資質・能力を明確化した上で、その育成に必要な教育のあり方を考える方向。 より効果的な教育課程への改善を目指すためには、学習指導要領の構造を、育成すべき資質・能力を起点として改めて見直し、改善を図ることが必要」。 これは国立教育政策研究所の資料ですので、かなり信憑性のある資料だと思います。



育成する資質・能力を明確にした鑑賞教育

美術館の美術鑑賞と学校の美術鑑賞は違うのか、同じなのか?これは育成すべき資質・能力が、そもそも違うわけです。もっというと制度的に違います。 考えなくてはいけないのは、いま美術館と学校は連携してやっていくことが増えている。そのとき、どうしたらいいかということです。 美術館側のプラン、お膳立てに学校が乗っかっているだけという実態が多々、見られます。

これは秋田県立美術館にある藤田嗣治の大作『秋田の行事』です。この作品は秋田の人はほとんど知りません。 それではいけないということで秋田の教育庁と話をして、小学校、中学校、高校で学習機会を設けようと今、研究しているところです。 美術館の場合、第三者として子どもが来た場合、どうするかということですけど、私は美術館側の考えでやられたらいいと思います。 あえて「うちは解説をしっかりやります」でも私はアリだと思います。もちろんそれが市民に受け入れられるかは別問題です。 美術館のミッションとして、確たるものを持っておられるならそれはそれで構いません。

発達段階によって鑑賞の指導は変わってきます。観衆のニーズや観衆の特性によって鑑賞のプログラムが変わってきます。これは「発達特性・学習課題」です。 美術鑑賞を通して、生徒にどんな力をつけるのか。美術鑑賞を通して、観衆にどんな満足を与えるのか。 これを「育成する資質・能力」といいます。この2つの側面から少しお話をしていきます。

「対話による美術鑑賞」を基軸にしてお話していきますので、少し触れておきますと、これは教師の活動です。

①開かれた質問をする
②根拠を問う
③受容的態度で意見を受け止める
④意見を交流しまとめる。

簡単に言っていますが、④は非常に難しいですね。
子どものほうは①作品をよく見る②作品についてよく考える③自分の考えを話す④友達の発言を聞く、と非常に単純な活動です。これは「対話による美術鑑賞」の大きな根幹です。 その根底には「社会的構成主義」の考え方があります。

これは、ピアジェとヴィゴツキーの構成主義の比較ですが、ヴィゴツキーは「学習を社会的な相互行為としてとらえる」ものであり、「知識は社会的に探求し構成されるもの」と述べています。 この2人の共通部分は「知識は与えられるものではなく、学習者が獲得する(構成する)という部分です。 こういう考え方が基盤になければ、「対話による学習」は成立しません。 構造主義的学習理論を基にして、集団で探求する学習、対話による知の相互作用、集団で知識を構成~こういう要素で成り立っています。 そこで出来上がってくるのが「作品の意味生成」ということです。詳しく言いますと、対話による美術鑑賞は、対話による意味生成的な美術鑑賞ということになります。


「風神雷神」

これは、一つの授業例です。
先生が「正解はないから、気づいたことをどんどん発表してください」とおっしゃって、生徒が「服装が似ていると思いました」。 先生が「服装が似ている、どんなところが似ているのかな」。生徒が「黒いひもみたいなのが」。先生が「ああ、たしかに、ここに黒いひもみたいなものがあるね」。 こういうかたちで対話による鑑賞が進んでいくわけです。

よく、「対話型の鑑賞はアメリア・アレナスによって日本にもたらされた」とか「対話型鑑賞はアビゲイル・ハウゼンのVTSがもとになっている」というクエスチョンがあります。 あるいは「対話型鑑賞法はVTSがもとになっている」というような言い方をする人がいますが、これは間違っています。 それから「対話型鑑賞は知識を教えてはいけない」と思っている方がいますが、これも間違っています。


アメリカの現状から学ぶ

さきほど挙げた2つの課題について、まずアメリカの現状から学んでいこうと思います。 といいますのは、去年の2月に一條さんとアメリカの東海岸の美術館巡りをしました。そこでアメリカの美術館の教育普及のあり方について現地調査をしてまいりました。 これは、グッゲンハイム美術館です。セントラルパークを背中にして撮っています。ここから入っていきますと、かたつむりの殻のような中に入るわけです。

この方はキュレーターのアレクサンドラ・ムンローさん。おそらく世界で一番有名なキュレーターだと思います。 この建物の中に教育センターがあります。その中に入って私がびっくりしたのは、パッと一目で分かるキース・ヘリングのポスターがあり、「Learning through art」と書いてあります。 ちなみに私が主宰している「美術による学び研究会」のホームページのフロントには「Learning through Art」と書いてあります。

これは、アートインテグレーションといって、作家を学校に派遣して授業をするのですが、1学期とか1年間やるわけです。 これには理由があり、美術の先生がいない学校があるからです。それぞれの学校の予算権限は校長が握っており、その配分によって美術の先生がいたり、いなかったりします。 日本のように均一にどこの学校にも同じように美術の先生がいるということではありません。

まずは「発達特性・学習課題」です。相手次第で鑑賞の指導が変わってくるということです。あるいは学習課題によって変わってくるという例ですが、私たちはピサロの作品を鑑賞をしました。 「この作品を見て何に気がつきましたか」。いきなり「白い煙が見えます」と言ったのは一條さんです。自分が気になるところを話して、だんだん作品全体が見えてくるという仕組みになっています。

ある人が「平和な田舎の村、穏やかな午後の風景に見えます」という発言をしました。 そのときに、対話による鑑賞を率いるシャロンさんが「ピサロはこの村に住んでいたのです。この絵は1867年に描かれました。 ちょうど産業革命が進んだ頃で、その波はポントワーズにも押し寄せ、村の人々も都会に働きにでるようになりました。 近代化していく都会の風景、それとは違う見慣れた田舎の風景、当時、これだけ大きなキャンバスに田園風景を描いた絵はなかったのです。 ピサロは田舎の風景の素晴らしさに魅了された画家でした」という解説がありました。

参加者がこういう風な感想を持ち、このような思いで読み始めたときに、こういう解説を入れるのです。 対話による鑑賞をしていますが、要所要所でポイントになるような解説をされる。 これは私たちがシニアの美術研究者であるからです。相手がそうでなかった場合は、こういう解説は入れません。

たとえば、小学校2~3年生向け(5~6人のグループ)のプログラムならまったく入れません。そういう場合は、こういう方法でやります。 第一問は、「見たものは何ですか?」それで簡潔に答えを書きます。書いた答えを折って隠して隣に回します。そうすると折った紙が来ます。そこで第二問です。 こんどは「聞こえたものはなんですか?」それでまた折って隣に渡す。その繰り返しをしていきます。 この時はこういう5つの問いでした。視覚と聴覚、嗅覚、触覚と味覚。五感を通しての鑑賞をするわけです。 最後にばらばらに書いた5つの答えが自分の手元に残ります。これを順番を考えて文章にするわけです。 もちろん、この中で生徒が答えたのは一つだけです。順番に回しているわけですから。

この方法は大人にも有効です。これは島根県の教育研修で使ったものです。 その中で今やったようなことを先生にやっていただきました。「青い空にはぽっかりと白い雲が浮かんでいる。穏やかに風が吹いて、野菜を煮込んだ甘いスープの香りが白い壁の家から漂ってくる。 耳を澄ませばそよそよと風の音が聞こえる。わたしは草むらに寝ころびながら、お休みの日のゆったりとした気分を味わっている。 そばでは、小さな子どもが座り、「きょうも楽しかったね」とおしゃべりをしている。そんなのんびりした午後のひととき」。

素晴らしいじゃないですか。この作品の解説といいますか説明をする。たぶんどんな画集にも載っていない、この人のオリジナルの解説。 こういうまとめが最後にできることは大事ですし、こういうやり方を覚えていくと、自覚的に作品を見て自覚的に頭の中で整理ができます。 つまり「同じピサロ作品を使っても、目標と相手によって鑑賞プログラムが違う」わけです。 これを小学校から高等学校まで発達に応じて、学習のねらいがあると捉えていただいていいと思います。

これはグッゲンハイムのホームページのフロントページですが、ここにこう書いてあります。ここを拡大してみます。 いちばん上にイングリッシュ、ランゲージアーツがあり、国語、数学、理解、社会があり、アートがある。 要するにいろんなニーズに応えられるようなプログラムを開発しているわけです。

次は、美術鑑賞を通じてどんな力をつけるのか。あるいはどんな満足を与えるのかという視点で考えてみたいと思います。

これは、MoMAです。MoMAに入りますと、ロダンのバルザック像があります。私たちはここで対話による鑑賞を受けたのですが、「キャラクター」というテーマを与えられました。 まず普通にバルザック像を見て、「何が見えますか」と問われ、「そっくりかえっているから偉そうな感じがする」とか答えるわけです。観察しながら、この人がどんな人かを想像して見るわけです。

こちらのウォホールの「マリリンモンロー」でも同じように対話による鑑賞が行われ、この人、どんな人ですか?と問われるわけです。 「微笑んでいるけど、寂しそうに見える」とか「顔しか見えない。壁のようなもので遮られている。」と話しながらみんなで鑑賞します。 最後にバーネット・ニューマンの横5メートルくらいある大きな作品を見て、「これが人だったら、どんな性格だと思いますか?」と問われました。 みんなそれぞれ考えて、「前を塞ぐような感じなので威圧的な人だ」とかいろいろ答えました。

それで、「なぜこの作品を最後にもってきたか、わかりますか?」と問われました。ギャラリートークをしていただいたジェシカさんは、こういっています。 「私たちが重きを置いているのは、作品の相互作用です。バルザックの鑑賞がウォホールの鑑賞に、それがまたニューマンの鑑賞に影響を及ぼし相互効果をもたらす。 私たちが作品をどう見るか。ニューマンの赤に何を見るかは自分に返ってくるのです。 この作品は情報を与えない。見る人が情報を作品に導入する。見る人の性格が入るのです」。

そうなのか、自分の性格が入るのか、やられたなと思いました。ここでジェシカさんがいっているのは「展示の工夫・作品の順番」、そして「作品は自分を映す鏡」であるということです。

よく例に出すのですが、スペインの「レニアソフィア」(ソフィア王妃芸術センター)でこういう展示がありました。ここには『ゲルニカ』がありますが、すぐそばに、この絵があります。 さらにピカソの『朝鮮の虐殺』とエドゥアール・マネの『皇帝マキシミリアンの処刑』があります。実際はこんな風に展示しています。右は『ゲルニカ』の定位置です。 観衆はこれらの4つの絵画を見て、いろいろ比較するわけです。そういう仕掛けがなされている。 つまり、見る人に「思考」を促す展示になっています。説明のための展示ではありません。 普通、一般的な展示は年代別に並べたりしますが、これは非常に思考を促す展示になっています。

そういう意味では常設展示ではありますけど、ティッセン・ボルネミッサ美術館の「トランプの勝負」と「ホテルの部屋」、 この2つの絵画は嫌でも比較して見ないといけない。私はこの絵の前で20分くらいずっと考えていました。 見る人に思考を促し、自分を投影する仕掛けがある展示です。

そして、先ほどの話に戻りますと、エデュケーションセンターに戻り、ジェシカさんにまとめの話を聞きました。 「私たちが願っているのは、アートについて、アーティストについて学ぶ以前に、人びとが作品を私たちの周りの世界とどのように関連付けて扱うかということです」。 これは、すごい言葉だと思います。さきほどの資料では「学習指導要領では何ができるようになったか」よりも、「知識として何を知ったか」重視されがちで現状は不十分という指摘がありました。 ジェシカさんがいうアートについて、アーティストについて学ぶ…とは「知識として何を知ったか」ということです。 作品を私たちの周りの世界と関連付けるというのは「何ができるようになったか」ということです。 今、振り返ってみると、今後の方向性を示唆してくれる言葉だったと思います。

これはMoMAのホームページです。 これを拡大しますと、「批判的思考力が大事である」と書かれています。 これは現在の学習指導要領にも書かれていることです。皆さん、アメリカの現状から何を学ばれたでしょうか。


美術鑑賞で育てる資質能力

いま15歳の子どもは20年後に35歳になっており、キャシー・デイビットソンのいうような社会の中核的存在になっています。そういう子どもを今、先生方は教えていらっしゃるわけです。

この人は、マイケル・ゴーブ。英国の教育相です。この方はなかなか刺激的なことを発言しています。 「あらゆるものがかつては想像できないほど進歩している。でも、まったく変わっていないものがある。教育だ。 ビクトリア時代の教師が、21世紀の教室に入ってきてもさほど驚かないだろう。ほかのジャンルではありえないことだ。このモデルは近い将来、滅びるだろう」。

英国はナショナルカリキュラムのキースキルとして
1.数の応用力
2.コミュニケーション能力
3.情報活用能力
4.チームワーク力
5.自己改善力
6.問題解決力

この6つを挙げています。カナダも同じようなスキルを掲げています。アメリカは「21世紀型スキル」を挙げています。これもホームページで見ることができます。

1.問題解決能力
2.創造性
3.コミュニケーション能力
4.チームワーク力
5.自立的に学習する能力
6.メディアリテラシー
7.グローバルな認識
8.社会市民としての意識
9.批判的思考力

どれも部分的には現在の学習指導要領と似ているのですが、それを明確に先頭に位置づけて、それを育てるために、こういう学習課題を持ってきて学習活動を行うという流れを大事にしているのだろうと思います。 これは21世紀型学力が、対話による鑑賞とどのように対応するかを書いたものです。みごとに全部に対応しています。

現在の「文科省の学力の構造」は、とてもややこしいです。「社会人基礎力」は経済産業省のホームページで見ることができます。 これは実は大学教育で扱う学力です。もちろん大学には学習指導要領がありませんから、こういうものを拠り所にして授業をするわけです。 さらに本田由紀さんはメリトクラシー(近代型能力)に対して、「ハイパー・メリトクラシー(ポスト近代型能力)」という造語を作られ、こういう規定をされています。

「生きる力」でいわれているような能力
多様性・新奇性
意欲・創造性
個別性・個性
能動性
ネットワーク形成力・交渉力(対人関係能力)
自分への目標
環境への鋭敏な感受性と反省的な自己規定
全人格的なもの(学力と人格の統一)

こういう風に変える必要があると述べられています。日本の教育の現状はいろんな価値観が入り交じった状況でしたが、ようやく整理されました。 去年の4月に中教審答申で第二次教育振興計画が出され、6月に閣議決定されました。やはり「近代社会型工業社会」から「ポスト近代社会型」に変わっていく。 これは知識創造社会ということです。「学び」のシステムを変換していくことは、ちょうど1年前に閣議決定されました。そこでのキーワードは「自立、協働、創造」です。

そして、ようやく今年3月31日に「21世紀型能力」という構造、この3層構造で新しい能力構造が示されたわけです。 「思考力」を中核に、その中に「基礎力」があり、これらの外側に「実践力」がある。 これは作業部会のアイディアで、そのまま次の教育課程の元になるかは分かりませんが、大きな方向性はこの通りです。

これまでのスキル(学力)は、個人が知識を正確に習得すること、与えられた課題を効率良く解くこと。 つまり、ゴールを決めることができ、そこに到達するための教育をデザインすることができたわけです。 ところが、21世紀型学力というのは、状況に対応しゴールを捉え直すこと、主体的・協同的・創造的に判断することが求められます。 教わるのではなく自分で答えを出す。意見を交流し、解法を創出・共有する過程をデザインすることが求められます。これが先生方の仕事になるということです。

言い方を変えると、学習活動は授業型からテーマ型へ。「正解のない問題」に最善の解を協働で創りだす学習活動が必要になります。 そうするとなんとなく美術の場合も見えてきそうです。美術の学びも例外ではありません。鑑賞教育では、自立して考え、対話し、協働して知を創りだす授業が求められます。 これは、「対話による美術鑑賞」そのものです。



育成する資質能力を明確にした対話による美術鑑賞の授業

先ほどと繰り返しになりますが、この部分です。
「私たちが願っているのは、アートについて、アーティストについて学ぶ以前に、人びとが作品を私たちの周りの世界とどのように関連付けて扱うかということです」。 まず、育成すべき資質能力を最初に挙げて、そこから発達特性を見ながら学習を進めていくということです。

少し具体的に見ていきます。たとえば『風神・雷神図屏風』の授業。この場合、育成すべき資質や能力とは何なのか。中学1年生の場合、基礎となる能力、これは変わりません。 ①の造形的なよさや美しさなどを感じ取る能力、これは必要だろうと…。そして、美術文化を愛好し、継承・創造する態度を養うことになるのではないかということです。 このように育成すべき資質能力を明確にしておいて、中学1年生という発達の特性に沿って学習の課題を設定する。これが大事です。 とくに⑤の「日本の美術の文化遺産を鑑賞し、受け継がれてきた美意識や技術、創造的精神を感じ取ったり考えたりする」部分。 昨今、いろんな対話による鑑賞がされていますが、子どもからいろんな意見が出てきて「よかったね」で終わってしまってはダメで、 きちんと発達の特性を設定したうえでの授業でないといけないので、これがなくなってしまうような対話による鑑賞はありえないと思います。

この菱田春草の『落葉』ならどう授業しましょうか。中学2~3学年の場合、「基礎となる能力」は1年生と一緒です。 ①の形的なよさや美しさなどを感じ取る能力、これも一緒です。③が違います。ここは「作者の心情や意図と表現の工夫を考える能力」と設定します。 この作品では「作者の内面や生き方を推し量ったり、作者の生きた時代や社会的背景から考えたりして、幅広い視点から作者の心情や意図と表現の工夫を読み取る」ことが大事なのです。 これも往々して「対話による鑑賞」の授業を見ると、スコーンと抜けていることが多いです。ただ自分の鑑賞、自分の意見しかない授業が多い。 それも大事なことですが、そこだけに終始しているのはいけません。つねに発達の特性を考えながら、学習課題を設定して授業を進めていくことが大事です。

この『落葉』の絵でこういう意見が出てきました。 「木って縦に長いのにこの絵は紙を横に使っていて上の方が描かれていない。そこに全体を描いた緑の木があるので、作者はそれを描きたかったのかな」。 普通、木を描くときは画用紙を縦に使います。この子どもは経験からそう言っているわけです。 そして緑の木を描きたかったのかなと推測している。つまり「作者の意図に思いを寄せている」のです。

また「人の気持ちに例えると、失恋した後に恋が芽生えて、緑の木が生えてきた時って感じ」。いい意見です。 中学2~3年性ならそういうことに夢中になっている年頃ではあります。こういう意見が恥ずかしがらずに、冷やかされずに出てくるような雰囲気を作ることが大事です。 こういう意見がすっと出てくるのは、たぶん、いい学級だと思います。緑の木が生えることを恋の芽生えと見る、この意見が「象徴としての解釈」です。中学生らしいです。

別の生徒は「後ろに行くほど木が傷ついていて、前の方が緑で新しい。たぶんその緑の木は大人になるように生長するから、まだ出来たばっかりで、前に行くほど生まれたばかり」。 たどたどしい言い方ですが言わんとすることは分かります。これは自分と重ねて「空間の象徴的解釈」をしているわけです。 とくに菱田春草は空間表現に工夫を凝らした作家ですから、そういう意味ではいい見方です。

そして最後に出てきた意見「この緑の木は夏を表していて、この絵の全体は夏が終わった後の秋の感じで、小鳥は過ぎた夏を恋しく思っている。 何というか、来年の夏を待ち遠しいと思っている」。すごい意見です。これは「主題の探求」なんです。これを先生がどう受けるかです。 「そういう見方もあるね、はい、終わり」。これではちょっと生徒が可哀想です。せっかく主題の探求をしているのですから、先生は教材の研究をしておいて、こういう解説をしてあげなきゃいけない。 「これは死の間際に書いた作品です。この作品は作者が衰えていく視力と体力のなか、療養先の代々木の雑木林を見つめながら描いた『落葉』という作品です。 作者の春草にとって、来年の夏を待つということは、特別の意味を持っていますね」。 生徒の言葉「来年の夏を待つ」をうまく使いながら、こういう解説を入れて、主題の探求へ導いていく。それが大事です。

育成する資質・能力を明確にした、対話による鑑賞のイメージはつかめましたでしょうか。
「絵の中に私の心を遊ばせているといろいろな考えがわいてくる」。これは小学校5年生の言葉です。 小学校5年生でも自分をもういっぺん別の自分から見つめ直しています。これは美術を鑑賞するうえで非常に大事な言葉だと思います。 対話による美術鑑賞は、育成する資質能力を頭に据えて、発達特性をクロスで学習課題を設けて、実践していただくことがいいかなと思います。

どうもありがとうございました。