ギャラリートーク分析
- 日時:
- 8月2日(火) 10:00~11:30
- 会場:
- 国立新美術館 講堂
- 講師:
- 奥村高明(聖徳大学児童学部児童学科 教授)
一柳智紀(新潟大学教育学部教育科学講座 准教授) - 司会:
- 一條彰子
- 編集・構成:
- 室屋泰三
寺島洋子
概要
「学習鑑賞」は、作品の解釈という学習を通してその子の能力を深める行為である(奥村)。
それは、五感を通して得られた外界の情報を、子どもが既存の知識を使って意味づける行為であり、感性と思考を育む活動なのです。
トーク分析の目的は、そうした子どもの中に起きる変化や変容を促す鑑賞の深まりについて考えることです。美術館という環境の中で様々な作品と出会いながら、教員や友達とのやりとりの中から、その深まりはどのように現れてくるのでしょうか。また、教員はどのようにしてそれを深めることができるのでしょうか。本研修では、小学生と中学生それぞれのギャラリートークの記録映像を見ながら分析を試みました。
分析対象
1.小学生
- 対象者:
- 墨田区立堤小学校 4年生14名
- 撮影日時:
- 平成23年3月10日、約70分間
- 撮影場所:
- 国立西洋美術館 常設展示室
- 指導者:
- 前半(ミロ):
南 育子(同校教諭、現墨田区立業平小学校 教諭)
後半(自由鑑賞):
寺島洋子 - 対象作品:
- 前半:ジョアン・ミロ《絵画》1953年、油彩
後半:オーギュスト・ロダン《オルフェウス》1908年、ブロンズ、他
2.中学生
- 対象者:
- 千代田区立九段中等教育学校 1、2年生11名
- 撮影日時:
- 平成20年7月28日、約50分間
- 撮影場所:
- 東京国立近代美術館 所蔵作品展示室
- 指導者:
- 三澤一実(武蔵野美術大学教職課程研究室 教授)
- 対象作品:
- 柳原義達《犬の唄》1961年、ブロンズ
-
※「平成20年度 美術館を活用した鑑賞教育の充実のための指導者研修」にて実施したもの
※ ビデオ提供協力:
小池研二(横浜国立大学教育人間科学部人間発達学科 准教授)
1.小学生
- 司会
- 最初、16世紀前半にフランドルで制作された三連祭壇画を見ました。この後に1953年に描かれたジョアン・ミロの≪絵画≫を見ました。分析はこの2点目の≪絵画≫のトークで行います。
(子どもたちは展示室の椅子に座って、ミロの《絵画》を見ている。先生が最初の問いを発する)
- 奥村
- 実は、この最初の場面で、この後に展開される大まかな方向が方向付けられているのです。というのは、先生が「何とかに見える」「何とかに見えるね」「何とかに見える」ということを何度も実は子どもに対して繰り返してしまうのですね。それは一つの終点を表してしまっていて、子どもは何かに見えたら、もうそれでおしまいという発言になってしまいます。
実は、このような対話を中心としたギャラリートークの場合に陥りがちなのは子どもとの対決、1対1の対決で終始してしまう。意見が循環せずに「はい、これはこうだね」「これは、これだね」で終わってしまう。
そのきっかけが、実は先生の一番最初の発言にあるのですが、「これは絵だ」「絵だ」「絵だ」「絵だ」というように何度も絵であることを強調しているのですね。
子どもは、美術作品を絵とか、彫刻として実は捉えない傾向があって、何かの夢とか、世界とか、物語というように捉える。子どもに対して「これは絵だ」「絵だ」「絵だ」と言うのは、得策ではなかったかもしれません。
さりげないわたしたちの言葉の使い方に、トークを方向付ける要素が幾つも入り込んでいるのだというのは、この場面で考えられることかなと思いました。 - 一柳
- 一方で、この場面で先生が「みんな分かる?女の子(1)が言ってること分かる?」と全体に尋ねているように、この後続けて、その子の見方をやってみるというようにトークが進んでいきます。そのときの周りの子の表情というものを併せて見ていただけたらなと思います。
(男の子(6)が絵の前に出て行く。先生は他の子どもたちにも前に来て見るように促し、みんな前に出てきて絵を見る)
- 一柳
- 今ご覧になっていただいて分かると思うのですけれども、先生がその子の見方で作品を見てみようと促すと、この子が最初に「あー、なるほどね」とつぶやいていたり、顔に見えるという子の見方で見ると、周りの子がうんうんとうなずいて、その中で後ろの子がつぶやいて、顔は顔なのだけれども少し違う顔の見方を語ったりしていました。
ここのところで、ある子の見方を他の子も経験する機会を、先生が作っていらっしゃったのではないかと感じました。また、そこで子どもがとても反応していることから、他の子の見方を通して作品に出会い直しているということがこの場で起きていたのではないかと感じました。
中でも最後に顔についてつぶやいた子は、他の子の見方を通して作品に出会い直すことで、更に自分の見方を生み出していたのだと感じました。 - 奥村
- 実は、わたしも同じところに注目したのですけれども「見える」「見える」「見える」で終わっていたときに活動が少し停滞してくるのです。
ところが、先生がそのようなときに前のほうに子どもを寄せるのですね。そうすると、単発だった発言が一斉に活性化して「ああ、見える」「ああ、俺も」「俺も」とどんどん出てくるようになる。
ということは、展開がうまくいかないときには場所を変えるとか、距離を変えるとか、視点を変えるとか、クローズアップするとか、そのようなことが有効だということがこの場面で分かります。一斉に子どもたちの発言が元気になりますから。 - 一柳
- ここでやはり前に出てきた男の子の見方というのが、単純に何かに見えるというだけではなくて、ある場所から見ることによってそのように見えるというように、場所とも関わっていると思いました。前に出てくることによって、その子の見方をなぞることが可能になっているのではないかと感じます。
- 一柳
- 今、前に出てきたところでたくさんいろいろな子がつぶやいていました。先ほど奥村先生がおっしゃったように、位置が変わることによって子どもの見方が変わって活発になっているというのと、もう一つ「自転車に見える」とか「溶けてきているみたい」「ひもで巻いているように見える」というように、先ほどは宇宙とか顔に見えるというように絵全体を何か一つのものとして捉えていたのに対し、前に出てきたことによって絵の部分部分に着目するような見方が子どもの中から出てきたのではないか感じます。
それもやはり元々「背景のネズミ色が人に見える」と言った子が、背景という絵の一部分に着目していたということとも関わっているのかなと思います。
この次に一旦席に戻って、またもう1度見直すということになるのですけれども、前に出てきて話したことが、最後に見たときにも結び付いているのではないかと思います。
(子どもたち元の場所に戻って椅子に座る)
- 一柳
- 今のところで、最初に発言している男の子(6)は、先ほど前に出てきて背景が「ネズミ色の所が人に見える」と言った子ですが、自転車に乗って夕方で帰るというように見方がかなり変わっています。
自転車というのは、前に出てきたときに女の子(7)が言っていたことで、夕方というのは太陽という他の子の意見とつながっているのかもしれません。そもそも男の子(6)は背景という一部分に着目していたのですが、ここでは絵全体にストーリーを持たせる見方に変わっています。その変化というのは、やはり他の子の言葉を聞く中で生まれてきているのではないかなと感じました。
また先生が指名された最初に宇宙と言った女の子(1)は、変なやつがなわとびのなわで、女の子が縄跳びをしていると言っていました。これも人が何かしているというようなストーリーのある見方で、人がチャリンコに乗っているという先の女の子(7)の見方とのつながりの中で、見方が変わっているのではないかなと感じました。
ここで先生は、否定的には捉えられていないと思うのですけれども「見え方が変わって来ちゃったねー」と応じていらっしゃっていました。この女の子のような変化は面白いなと思って、他の子の意見がどのように気に入ったのかなというのを聞いてみると、トークの中でどのように変わったのかといった彼女の鑑賞過程にも寄り添うことができるのではないかなと感じました。